1 疲弊し切った二人の女の邂逅の象徴的構図
本作の作り手が、構図に拘る事実を印象付ける象徴的なシーンがあった。
ブレンダとジャスミンの、初対面のシーンである。
まるで商売っ気がなく、鈍重な夫を追い出し、ハンカチで涙を拭うブレンダと、反りが合わないのか、喧嘩ばかりの夫を見限って、一人夜の砂漠を歩き果てた疲労感で、ハンカチで汗を拭くジャスミン。
疲弊し切った二人の女が、画面一杯にシンメトリーに向き合って、奇妙な均衡を保持する構図こそ、そこから開かれる「砂漠の奇跡」の物語のシグナルになっていくのだ。
そこは、色彩と光と風の自然の造形美を映像構築して見せた、乾いた砂漠の中枢に位置する唯一のオアシス。
その名は「バグダッド・カフェ」。
しかし、唯一のオアシスであるはずの「バグダッド・カフェ」は、砂漠に生きる者の厳しさを内化し、そこで充分な「潤い」を自給する場所としての機能を果たしていなかった。
働く意欲のない店員、遊び盛りの女の子、生まれたばかりの子供の面倒を母に押し付け、自分はバッハの肖像の前で、一日中ピアノを弾く息子、そして、そこにやって来る疎らな客もどこか風変わりな御仁たち。
全く役立たずの夫を持つミストレスのブレンダだけが、「バグダッド・カフェ」を切り盛りしているが、一日中、不平不満のシャワーを浴びせて、彼女のストレス瓶は今や飽和状態と化し、突沸(とっぷつ)寸前だった。
ワースレスな夫を追い出した女と、夫から逃れた女の初対面の象徴的構図は、彼女らにとって殆ど最悪の状況下での邂逅だったのである。
2 「自由の国」での、「異邦人」に対するミストレスの受容
はち切れんばかりのストレスに疲弊する女と、空疎な心を潤沢にしたいと願う二人の女がクロスしても、折り合うことは全くない。
それに加えて、誤って夫のスーツケースを持って来たばかりに、「バグダッド・カフェ」のミストレスから疑われ、保安官の簡易訪問を受ける始末。
「法律を破りさえしなければ、自由の国だ」
ネイティブの保安官が、ブレンダに放った一言である。
その一件によって、法的に庇護された安心感からか、「潤い」を求めるドイツ女は、少しずつ、「バグダッド・カフェ」を本物のオアシスに変えていく。
ドイツ女のジャスミンは、初めからそのような目途を持って「オアシス革命」を開いた訳ではないが、夫の元に帰還する意志を持たない彼女には、そこで自分の能力の及ぶ範囲で、自分の理想とするイメージの世界を現実に移していくのだ。
まず、他人の店のオフィスを勝手に掃除することで、その場所を、自分で思い描いた「バグダッド・カフェ」に近いイメージに変えようと試みるが、当然、ミストレスからの怒りを買う。
それに懲りないジャスミンは、ブレンダの子供たちの曇りを知らない心のうちに、持前の天然性を発揮してナチュラルに入り込んでいく。
砂漠の中枢にあって、恰もその砂漠の風景にフィットしたかのような関係を形成している、この「バグダッド・カフェ」の中で潤いを求めるドイツ女には、その心が子供たちに通じる能力を持つのだろう。
ジャスミンの闊達な気性が功を奏して、「バグダッド・カフェ」に集う面々から受容されていくが、そんな彼女を受容した最後の人物がブレンダだったのは、交叉の経緯から言えば当然至極の流れであった。
「自分の子と遊びな」とブレンダ。
「いないの・・・」とジャスミン。
ジャスミンのこの一言は、「異邦人」に対するブレンダの受容を決定づけた。
「言い過ぎたよ。仕事に追われて、それに子供たち・・・亭主は出て行くし・・・」
ブレンダの受容の一言もまた、彼女の本来的な包括力を検証したのである。
3 「この世の何処にもない場所」としての、「バグダッド・カフェ」での「オアシス革命」の成就
ジャスミンは自分に好意を持つ、ハリウッドで背景画家を務めていたと言う、ルーディの絵のモデルになる傍ら、マジックのレッスンに励んでいた。
まもなく、それをマスターしたジャスミンは、間髪を容れず実践に移していくことで、「バグダッド・カフェ」をオアシスに変容させる「オアシス革命」に着手した。
ジャスミン自身の自覚とは無縁に、彼女は「女マジシャン」を立ち上げて、この「オアシス革命」の推進力になっていったのである。
風景が変容することで、そこに集う者たちの活力が引き出されていく。
本来的に、「この世の何処にもない場所」としての「バグダッド・カフェ」は、光と風と色彩の見事な自然の造形美に囲繞され、そこだけが特別に切り取られた幻想のスポットだった。
乾燥し切った「潤い」のない場所に、適度な湿潤性を与える映像は、その中で、「自分充分」という律動感で生きてきた者たちの日常性に、「人生はゲームである」と思わせる余裕を作り出したのである。
「オアシス革命」の成就である。
これは、「この世の何処にもない場所」を、人間が「遊び気分」で生きるに足る「潤い」を自給する場所に変容するマジックの映像なのだ。
そこには、シビアなリアリズムが侵入する余地はない。
本作の作り手は、そういう映画を構築したのである。
(人生論的映画評論/ バグダッド・カフェ('87) パーシー・アドロン <「日常性」の変りにくさに馴染んできた者たちによる、「第二次オアシス革命」への過渡期の熱狂>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/10/87.html
ブレンダとジャスミンの、初対面のシーンである。
まるで商売っ気がなく、鈍重な夫を追い出し、ハンカチで涙を拭うブレンダと、反りが合わないのか、喧嘩ばかりの夫を見限って、一人夜の砂漠を歩き果てた疲労感で、ハンカチで汗を拭くジャスミン。
疲弊し切った二人の女が、画面一杯にシンメトリーに向き合って、奇妙な均衡を保持する構図こそ、そこから開かれる「砂漠の奇跡」の物語のシグナルになっていくのだ。
そこは、色彩と光と風の自然の造形美を映像構築して見せた、乾いた砂漠の中枢に位置する唯一のオアシス。
その名は「バグダッド・カフェ」。
しかし、唯一のオアシスであるはずの「バグダッド・カフェ」は、砂漠に生きる者の厳しさを内化し、そこで充分な「潤い」を自給する場所としての機能を果たしていなかった。
働く意欲のない店員、遊び盛りの女の子、生まれたばかりの子供の面倒を母に押し付け、自分はバッハの肖像の前で、一日中ピアノを弾く息子、そして、そこにやって来る疎らな客もどこか風変わりな御仁たち。
全く役立たずの夫を持つミストレスのブレンダだけが、「バグダッド・カフェ」を切り盛りしているが、一日中、不平不満のシャワーを浴びせて、彼女のストレス瓶は今や飽和状態と化し、突沸(とっぷつ)寸前だった。
ワースレスな夫を追い出した女と、夫から逃れた女の初対面の象徴的構図は、彼女らにとって殆ど最悪の状況下での邂逅だったのである。
2 「自由の国」での、「異邦人」に対するミストレスの受容
はち切れんばかりのストレスに疲弊する女と、空疎な心を潤沢にしたいと願う二人の女がクロスしても、折り合うことは全くない。
それに加えて、誤って夫のスーツケースを持って来たばかりに、「バグダッド・カフェ」のミストレスから疑われ、保安官の簡易訪問を受ける始末。
「法律を破りさえしなければ、自由の国だ」
ネイティブの保安官が、ブレンダに放った一言である。
その一件によって、法的に庇護された安心感からか、「潤い」を求めるドイツ女は、少しずつ、「バグダッド・カフェ」を本物のオアシスに変えていく。
ドイツ女のジャスミンは、初めからそのような目途を持って「オアシス革命」を開いた訳ではないが、夫の元に帰還する意志を持たない彼女には、そこで自分の能力の及ぶ範囲で、自分の理想とするイメージの世界を現実に移していくのだ。
まず、他人の店のオフィスを勝手に掃除することで、その場所を、自分で思い描いた「バグダッド・カフェ」に近いイメージに変えようと試みるが、当然、ミストレスからの怒りを買う。
それに懲りないジャスミンは、ブレンダの子供たちの曇りを知らない心のうちに、持前の天然性を発揮してナチュラルに入り込んでいく。
砂漠の中枢にあって、恰もその砂漠の風景にフィットしたかのような関係を形成している、この「バグダッド・カフェ」の中で潤いを求めるドイツ女には、その心が子供たちに通じる能力を持つのだろう。
ジャスミンの闊達な気性が功を奏して、「バグダッド・カフェ」に集う面々から受容されていくが、そんな彼女を受容した最後の人物がブレンダだったのは、交叉の経緯から言えば当然至極の流れであった。
「自分の子と遊びな」とブレンダ。
「いないの・・・」とジャスミン。
ジャスミンのこの一言は、「異邦人」に対するブレンダの受容を決定づけた。
「言い過ぎたよ。仕事に追われて、それに子供たち・・・亭主は出て行くし・・・」
ブレンダの受容の一言もまた、彼女の本来的な包括力を検証したのである。
3 「この世の何処にもない場所」としての、「バグダッド・カフェ」での「オアシス革命」の成就
ジャスミンは自分に好意を持つ、ハリウッドで背景画家を務めていたと言う、ルーディの絵のモデルになる傍ら、マジックのレッスンに励んでいた。
まもなく、それをマスターしたジャスミンは、間髪を容れず実践に移していくことで、「バグダッド・カフェ」をオアシスに変容させる「オアシス革命」に着手した。
ジャスミン自身の自覚とは無縁に、彼女は「女マジシャン」を立ち上げて、この「オアシス革命」の推進力になっていったのである。
風景が変容することで、そこに集う者たちの活力が引き出されていく。
本来的に、「この世の何処にもない場所」としての「バグダッド・カフェ」は、光と風と色彩の見事な自然の造形美に囲繞され、そこだけが特別に切り取られた幻想のスポットだった。
乾燥し切った「潤い」のない場所に、適度な湿潤性を与える映像は、その中で、「自分充分」という律動感で生きてきた者たちの日常性に、「人生はゲームである」と思わせる余裕を作り出したのである。
「オアシス革命」の成就である。
これは、「この世の何処にもない場所」を、人間が「遊び気分」で生きるに足る「潤い」を自給する場所に変容するマジックの映像なのだ。
そこには、シビアなリアリズムが侵入する余地はない。
本作の作り手は、そういう映画を構築したのである。
(人生論的映画評論/ バグダッド・カフェ('87) パーシー・アドロン <「日常性」の変りにくさに馴染んできた者たちによる、「第二次オアシス革命」への過渡期の熱狂>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/10/87.html