プレッシャーの心理学

 プロ野球の勝敗の予想は、かつてのシンボリ牧場(注1)の名馬たちのように、絶対の本命馬を出走させた年の有馬記念を予想するよりも遥かに難しい。確率は2分の1だが、野球には、何が起るか見当つかない不確定要素が多すぎるのだ。

 野球のゲームの展開の妙は、一つのプレーヤーや、微妙な空気の変化によって予想し難い流れを作り出してしまうところにある。これは非常に読みにくい。競馬もレース展開の妙という部分を多く持つが、直線勝負に入ってからの差し脚のパワーの差は、過去のデータから推量可能である。結局、強い馬がG1レースを制する競馬に比べれば、プロ野球のデリケートさは出色である。このデリケートさを読み解くところにこそ野球の心理学の醍醐味がある、と私は考える。

 この醍醐味を、存分に味あわせてくれた印象的なゲームがある。かの有名な、巨人対中日の最終決戦(注2/写真は「10.8決戦」)がそれである。

 勝ったチームが優勝という、エキサイティングなこの試合に対する盛り上がり方は尋常でなく、両軍ナインに与えたプレッシャーの凄さも、想像するに余りあった。だから私はそのプレッシャー度によって、このゲームを考察しようとした。そこに、プレッシャーの相当の落差があると考えたからだ。

 その結果、このようなゲームに限って勝敗が予想されると考えたのである。当然のことだが、プレッシャーを多く引き摺ったチームほどプレーに流れができず、それを修復できないまま、ゲームオーバーを迎える確率が高いのが、野球に象徴される団体競技としての多くのチームスポーツなのである。プレッシャーは、チームプレーを破綻させてしまうのだ。

 では、この最終決戦では、いずれのチームがプレッシャーを多く引き摺ってしまったか。間違いなく、中日である。この最終決戦までの流れの中で、巨人は連敗によって楽勝ムードが吹き飛び、中日は連勝によって諦めムードが吹き飛んだ。この両軍のペナント終盤の対照的な展開の妙が、それぞれ全く異なる精神状態を作り出してしまったと思われる。この状態の差が勝敗を分けたのである。
 
 私の定義によると、プレッシャーとは、「絶対に失敗(敗北)してはならないという意識と、もしかしたら失敗(敗北)するかもしれないという、二つの矛盾した意識が同居するような心理状態」である。そのため、固有の身体が記憶した高度な技術が、ゲームの中で心地良き流れを作り出せない不自然さを露呈してしまうのだ。

 この二つの矛盾した意識が自我の統括能力を衰弱させ、均衡を失った命令系統の混乱が、恐らく、神経伝達を無秩序にさせることで、身体が習得したスキルを淀みなく表出させる機能を阻害してしまうのではないか。そう思うのだ。

 連敗地獄の巨人は、「絶対に負けられない」というプレッシャー感を、まさに負け続けてきたことによって解体できたのである。「絶対に負けるかもしれない」という意識から、「絶対に」という、凝固したかのような思いが消えることで過剰なプレッシャーが中和され、土壇場で開き直れたのである。一方、開き直って連勝してきた中日は、最終決戦を前にして、初めて、「絶対に負けられない」という意識に搦(から)め捕られてしまった。そこに、極めて厄介なプレッシャーが噴き上げてしまったのだ。

 「絶対に負けられない」という意識の発生だけなら、単なる緊張感で済ませたかも知れない。彼らはプロスポーツの、鍛えられしタフガイなのだ。しかしそこでの状況は、精神的に相当苛酷であった。「追い詰められた巨人が、このままで済ますわけがない」という余計な観念も随伴してきたであろう。こういうとき、多くの場合、人は敵の心理状況を過剰なイメージで結んでしまうものなのである。このイメージの過剰な氾濫の中で、中日ナインの中に、「もしかしたら、この試合は負けるかも知れない」とう意識が出来してしまったように思われるのだ。

 ここに、俄かに得体の知れないプレッシャーが中日ナインに膨張してきてしまったと考えられる。緩慢なプレッシャーの形成なら対応の手立てがあるが、唐突なるプレッシャーの膨張を抑える手立ては簡単に見つからない。しばしば、「ここで勝ったら優勝(中日)」という意識が生む重圧感は、「ここで負けたら、それまでだ」という意識が生む重圧感を上回るのである。

 このゲームの帰趨は、戦う前にほぼ見えていた。野球の心理学が勝敗を暗示していたのである。

(「心の風景/プレッシャーの心理学」より抜粋)http://www.freezilx2g.com/2008/11/blog-post_07.html(2012年7月5日よりアドレスが変わりました)