エデンの東('54)  エリア・カザン <「自我のルーツを必死に求める者」の彷徨の果てに>

 簡潔に言えばば、こういうことである。

 「自我のルーツを必死に求める者」と、「その自我のルーツを、幻想の中で丸ごと受容してきた者」、そして、「自我のルーツへのアプローチを塞いでしまった者」。

 約(つづ)めて言えば、この三人の物語である。

 前二者は、青春期の渦中にある兄弟。

 三人目は、兄弟の父親である。

 彼らをここでは、物語に合わせて、キャル(次男)、アロン(長男)、父親と呼ぶことにする。

 物語の起動点は、自我のルーツを求めるキャルの行動によって開かれた。

 彼は、「なぜ、自分だけが兄や父親のような性格と違っているのか」と煩悶する中で、行動を開いていく。

 彼から見れば、兄や父親は聖書を信奉し、それを実践して生きる「善き人」であり過ぎた。

 そのため、世間からの評判も良いが、世俗的な欲望を観念的に否定する態度が眼についた。

 その二人と構成する家族の中で孤立するキャルは、母親が別の街で生きていることを知り、会いに行き、認知されながらも追い返されるという残酷な仕打ちを受けるが、「努力」の甲斐あって母親との会話を成立させるに至った。

 本稿で使用した画像は、彼の「自我のルーツ探し」=「母親探し」を象徴する決定的な構図であると言っていい。

 まもなくキャルは、父親との夫婦生活の閉塞感から、父親を拳銃で撃ってまで母親が家を飛び出した経緯を知る。

 それは、相互の極端な価値観や性格の不一致を、一方通行の「愛」を押し付けるだけの、人情味に欠けた父親の狭隘な精神によって、「家庭」という常識的な枠組みのうちに閉じ込めるには、あまりに我儘な女を強引に封印しようとして惹起した悲劇でもあった。

 「自我のルーツ探し」=「母親探し」の中で、「善き人」であり過ぎる父親の心象風景の真実の一端を知ることで、キャルは、「愛されていない息子」という自己像に起因する劣等感を相対化できたのである。

 爾来、キャルは父親の仕事を真摯に手伝い、父親が蒙った金銭的リスクの全てを、自らの才覚を駆使して返報しようとした。

 それが、キャルからの父親へのバースデイプレゼントだった。

 しかし、既に結婚を前提にしたアブラ(兄の恋人)が、弟キャルとの関係の最近接を目の当たりにして嫉妬するアロンは、アブラとの唐突な婚約報告を父へのプレゼントとすることで、父親を歓喜させる。

 紛う方なく、弟への報復行為だった。

 同時に、投機で儲けたキャルからの、キャッシュのプレゼントを断固拒否し、「返して来い!」と怒号する父親がそこにいた。

 キャルが受けた屈辱は、彼の自我に澱む「愛されていない息子」という自己像が、再び修復の余地のない辺りまで噴き上がった瞬間だった。

 激昂したキャルの、アロンに対する復讐が開かれた。

 「母性溢れる母」への幻想を、アブラへの「愛」によって代償していたアロン(注1)は、売春宿を経営する実母との「恐怖突入」を、キャルの誘導によって敢行させられ、甚大な衝撃を受けた挙句、自傷行為に走ったばかりか、「戦争は人道に反する」(注2)と言って、一貫して反対していた対独戦争(第一次大戦)に自ら参戦するに至ったのである。


(人生論的映画評論/ エデンの東('54)  エリア・カザン <「自我のルーツを必死に求める者」の彷徨の果てに>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/09/54.html