こうのとり、たちずさんで('91) テオ・アンゲロプロス  <“家に着くまでに、何度国境を越えることか”――「確信的越境者」の呻き>

 これはとてつもなく重く、根源的な問いかけを、観る者に放つ映画である。

 これほどラジカルな問題を真っ向勝負で捉えて、しかもそれを、人間の生きざまの悲哀を絡めて描き切っていく映像世界は、アンゲロプロス監督の独壇場の感がある。これは現代世界史の最も尖った問題の一つである、「国民国家」という物語の崩れ行く不安について、芸術表現のフィールドで観念的に考察した一篇だった。
 
 「国民国家」という物語。

 それは私たちが素朴に、その身体と自我を預けてきた絶対的な物語である。テオ・アンゲロプロスという先鋭な映像作家は、その物語の崩れ行くさまを、映像の中の様々な仕掛けの内に象徴的に描き出すことで、物語の不安な未来を厳粛なまでに映し出したのである。彼は、「国境は不必要である」と断言して止まないかのようである。国境を解体することで、そこに訪れるであろう希望の未来を、過剰なほどオプチミスティックに把握しているようにも見える。

 私たちの近代は国境を定めることで、そこに自らの拠って立つ政治的共同体を作り出し、それを「領土」として策定し、そこに「主権」を被せることで、その共同体に帰属する人々を「国民」と呼んできた。これが、「国民国家」という物語の中枢的体系である。

 それが存在することによって、私たちは身の安全と財産の確保を保障し、且つ、自らもまたその共同体の一員としての義務を果たすことで、そこから義務に見合った権利や利益を享受するのである。「国民国家」という物語の絶対性によって、私たちはその日常性の恒常的安定感を確保してきたとも言える。その物語に破綻が生じたとき、私たちはどこに向かい、何に依拠して、私たちの生活と人生をどのように繋いでいったらいいのだろうか。映像はそれについて、当然の如く全く答えない。

 然るに、アンゲロプロスは、カンヌで語っている。
 
 「今世紀初頭に起ったものすべて、夢や理想といったものは崩壊してしまいました。わたしたちはいま、狂気じみた国粋主義がふたたび台頭し、宗教戦争がおこなわれる時代に立ち合っています。こうなった原因は、事実上、理想の欠如にあると考えるべきです。わたしたちはみんな、世紀末の憂鬱とも呼べるようなものの中で生きています。価値の喪失から来ている不在のなかで生きています。残念ながら、映画が真実を描いているというのは、現実が証明しているのです」(「アンゲロプロス 沈黙のパルチザン」ヴァルター・ルグレ著 奥村賢訳 フィルムアート社刊より)
 
 この挑発的な発言から15年経って、今、世界現代史の複雑極まる展開の様相を俯瞰するとき、確かに、アンゲロプロスが予言した世界が不安含みで具現しているように見える。とりわけ、イスラムの世界で噴き上がっている尖った現実を日々に突きつけられて、今、私たちはこの沸騰した状況の行方を定められないで、まるで迷妄の森に拉致されてしまったかのようである。

 加えて、英国のブレア労働党政権の「第三の道」の劇的な展開によって、サッチャーによる中央集権体制を修復し、スコットランドウエールズ北アイルランドに地方議会を設立した事例を見ても分るように、民族の自立性を認知する分権化の流れは、「国民国家」という巨大な隔壁を稀薄化させる様相を呈してきたとも言えるだろう。

 そして何より、旧来の「国民国家」の概念をを超克するかのようなEUの存在の持つ現代的な意味は、恐らく、21世紀の歴史的なステージの中で、そこに内包される政治、経済、文化の結合力のダイナミズムをより顕在化していくに違いない。

 そして今、国境検問所、国境検査所の廃止を目指す「シェンゲン協定」(2008年12月現在、スイス、リヒテンシュタインまで、協定の実施状況が広がっている )の存在によって、まさに、アンゲロプロスがその創作世界でテーマにしてきた、「国境の絶対的な障壁」という問題への一つの歴史的解答が具現しつつあると言っていいのである。

 それにも拘らず、私たちが「国民国家」という物語の継続に大きな不安を抱き、それを簡単に捨てようとしているとは思えないのだ。

 「国民よりも民族」という形で稀薄化されつつありながらも、いや寧ろそれ故にこそ、なおこの「国民国家」という物語の未来を優しく繋いでくれる、より心地良い物語が、重量感のあるリアリティによって容易に止揚されていくとは、私には未だ信じ難いからである。

 アンゲロプロスは、物語の失踪政治家に、「国境は越えたが、まだここにいる。家に着くまでに、何度国境を越えることか」と語らせた。そのあまりに重い言葉は、物語の中で相当の説得力をもって語られているが、しかしそれはあくまでも、映像という虚構の世界のレトリックに過ぎないとも言えるのだ。

 確かに、「国民国家」の内実が様々な課題を抱えている現実を無視できないであろう。その一つが、本作でも描かれた難民の問題である。
 
 難民問題。

 それは、「パラダイス鎖国」と揶揄される日本に住む者にとって、あまりに経験的実感の乏しい問題である。因みに、毎日新聞によると、2004年現在で、この国に難民申請した者の数は、僅かに430人。中でもトルコ人が最も多く、130人。これは日本とトルコとの関係の親密度から言えば、納得できない数字ではない。

 その次がミャンマー。かつてビルマと呼ばれた国である。
 「ビルマメロメロ」(会田雄次著「アーロン収容所再訪」/中公文庫より)という言葉に集約されているように、この国に対する一部の日本人の親近感はとても強く、且つ、ミャンマーの政治の不安定な現状を考えれば、この数字も納得できなくはない。

 しかし日本という国に、インドシナ難民を約一万一千人を引き受けているものの(神奈川県大和市などの「定住促進センター」で受入れているが、「条約難民」とは異なる)、「難民問題」と呼ばれるほどの深刻な事態が起きていないことだけは事実である。まさか、この国の「圧政」を恐れて、この国を脱出しようと図る者たちが存在するとも思えない。

 では、「難民問題」を世界史的レベルで見てみよう。

 これも毎日新聞によると、2004年現在で、難民申請を起した者の総数は、約39万6000人。これを多いと見るか、少ないと見るかで見方が分かれるだろうが、実際の申請者数は、前年より22%少ないそうだ。

 しかも21世紀に入って、年々減少の一途を辿っているという現実がある。これはUNHCR国連難民高等弁務官事務所)のレポートによるもので、激減の理由は、アフガンとイラクからの申請者の数の低下にある。但し申請者数の低下は、難民が流入していく国家の難民管理体制の強化とも関係しているので、そこでは国境で難民を規制し、その難民たちに対する取り扱いの苛酷さという眼に見えない問題を抱えていて、申請したくても申請できにくい現実を無視することはできないであろう。
 
 まさに現代ギリシャの問題が、それに当る。

 アムネスティ・インターナショナルの報告によると、21世紀を迎えて、ギリシャアルバニア人イラク人、パキスタン人などの難民が保護を求めてきたが、国境警備兵に捕捉され、中には国境ラインで射殺される者も多くいたらしい。これは、「永遠と一日」というアンゲロプロスの傑作の中で象徴的に描かれていたが、紛れもなく、それは難民の現実の極相を示すものと言っていいだろう。

 このような事情のためギリシャでは、庇護を求める人が急増する一方、庇護の申請率が低く、難民割合の最も低い国の一つとされているほどである。要するに申請したくても簡単に受理されず(難民認定率は0.3%程度で、その保護率の0.9%の低さ)、申請することによって蒙るリスクの大きさを考えたとき、庇護を求める難民の立場がより難しくなるということだろうか。ここに、アムネスティ(しばしば、その政治的な偏向性で批判されることが多いNGOだが)が指摘したギリシャの難民迫害の典型的な例証として、キオス島での虐待のケースがある。

 「キオス島では、当局は人々を拘禁するために金属製のコンテナを用いている。その当局は妊娠中の女性や子どもを含む人々を繰り返し拘禁し、人身売買の犠牲となった女性や子どもを保護していない。何人かの移民は警察官から虐待を受けている」(アムネスティHP・アムネスティ発表国際ニュース〈2005年10月5日〉より)
 
 これを読む限り、アンゲロプロスが危惧する問題の深層に近づくことができるだろう。

 何しろギリシャという国は、北部に四つの国境を持っていて(西からアルバニアマケドニアブルガリア、トルコ)、更に、トルコとは北キプロスの火種を抱えているばかりか、EUへの中継点として、難民のターゲットになっているという問題を抱えている。ギリシャ政府が難民問題に神経を尖らせる背景が理解できなくもないのである。
 
 そのような複雑な事情を把握した上で本作と付き合うとき、難民と国境の問題に拘る作り手の思いがストレートに伝わってくるものがあるが、やはり私の中では、それはまだまだ、特殊な事情を抱えたまま近代史の扉を開いた、ヨーロッパの痼疾(こしつ)の一つであるようにも思えてしまうのだ。
 
 先述したように、今、そのヨーロッパが、何かが少しずつ変容しているように見えるのも事実である。ヨーロッパは、国境によって防御バリアを構築してきた「国民国家」という物語の枠を、果たして本気で越えようとしているのか。私の浅薄な知識ではとても手に負えるテーマではないが、それでも関税主権や農業政策の主権などに続いて、通貨主権もEUに譲渡させてしまったということになり、それが国民国家の解体の方向を目指すものなのかどうか、艱難(かんなん)な課題を抱えて、21世紀をリードする可能性がないとは言えないだろう。

 そこでは、人々の往来や国境検問は多くのところで廃止されていて、域内での労働許可証も必要なくなってきている。「国民国家」の主権が相対的に弱体化してきた現実と、そのリアクションについては、共に今後の世界史的なテーマになっていくに違いない。(社団法人行革国民会議HP・シリーズ討論「ヨーロッパにおける国民国家の行方」より部分的引用、参照)

(人生論的映画評論/こうのとり、たちずさんで('91) テオ・アンゲロプロス  <“家に着くまでに、何度国境を越えることか”――「確信的越境者」の呻き>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2008/12/91_13.html