北条民雄、東條耿一、そして川端康成 ―― 深海で交叉するそれぞれの〈生〉

 1  「おれは恢復する、おれは恢復する。断じて恢復する」



 「人生論的映画評論」の「小島の春」の批評の中でも書いたが、北條民雄(写真)の「いのちの初夜」の中の一文をここでも抜粋したい。(なお本稿では、多くの引用文があるため、ハンセン病患者を「癩者」として書いてあることを了承されたい)

 以下、「いのちの初夜」を不朽の名作にした、二人の「癩者」の有名な対話。


 「『盲目になるのはわかりきっていても、尾田さん、やはり僕は書きますよ。盲目になればなったで、またきっと生きる道はあるはずです。あなたも新しい生活を始めてください。癩者に成りきって、さらに進む道を発見してください。僕は書けなくなるまで努力します』

 その言葉には、初めて会った時の不敵な佐柄木が復っていた。

 『苦悩、それは死ぬまでつきまとって来るでしょう。でも誰かが言ったではありませんか、苦しむためには才能が要るって。苦しみ得ないものもあるのです』

 そして佐柄木は一つ大きく呼吸すると、足どりまでも一歩一歩大地を踏みしめて行く、ゆるぎのない若々しさに満ちていた。

 あたりの暗がりが徐々に大地にしみ込んで行くと、やがて燦然(さんぜん)たる太陽が林のかなたに現われ、縞目を作って梢を流れて行く光線が、強靭な樹幹へもさし込み始めた。佐柄木の世界へ到達し得るかどうか、尾田にはまだ不安が色濃く残っていたが、やはり生きてみることだ、と強く思いながら、光の縞目を眺め続けた」(「青空文庫」より)

 人間の根源的テーマに肉薄する、「癩」(注1)を病む二人の青年の根源的な会話。

 佐柄木と尾田。

 ここで対話する二人は北條の分身であると言われるが、同時に、彼がその短い生命を終えた全生園(東村山市にある「国立療養所多磨全生園」のこと)で知り合った、一人の若者をモデルにしたとも考えられる。

 その若者の名は、東條耿一(こういち)。

 その名が、家族への迷惑を斟酌した「癩隠し」故のペンネームを持つ二人の若者は、相互に「いのちの友」と信じる関係を切り結んだ間柄だった。

 その性格の尖鋭さ故か、全生園の医師に「人間性ゼロ」とまで酷評された北條だったが、当時、深刻な伝染病とされたハンセン病の特効薬が存在しなかった状況下にあって、盲目への恐怖による眼科への通院の常態化など、治療全般に及んで様々なクレームをつける北條の個人主義の目立った尖りは、医療サイドから見れば、我が儘な患者と看做されても不思議ではなかっただろう。

 まして、川端康成の知遇を得て世に出始めた、「癩の作家」による独自の文芸サークル等の活動は、園の中でもひと際、「異質の集団」の如く見られていたとも言われている。

 ここに、そんな文芸サークルの中枢を担う北條の死に関わるリアルな記録が残されている。

 それを書いたのは東條耿一。

 その記録のタイトルは、「臨終記」。

 以下、少々長いが、それを引用する。

 (因みに、本稿が、多くの長い引用・参考文献を活用させてもらっている事実を了承されたい。なお読みやすくするため、筆者の責任において、原文を現代仮名遣いに改め、できる限り誤字は修正し、送り仮名を付け、段落構成を手直しした)

 「・・・・・・彼は最後の一瞬まで、哀れなほど実に意識がはっきりしていた。文字通り骨と皮ばかりに痩せてはいたが、なかなか元気で、便所へなども、死の直前まで歩いて行ったほどである。その辛抱強さ、意志の強靭さは驚くばかりであった。(略)

 ・・・・・・彼の死ぬ前の日。私は医師に頼んで彼の隣寝台を開けて貰った。夜もずっと宿って何かと用事を足してやる為であった。私が、こん晩から此処へ寝るからな、と云うと、そうか、済まんなあ、と只一言。後はまた静かに仰向いていた。補助寝台を開けると、たいていの病人が急に力を落としたり、極度に厭な顔を見せたりするのであるが、彼は既に、自分の死を予期していたのか、目の色一つ動かさなかった。

 その夜の二時頃(十二月五日の暁前)看護疲れに不覚にも眠ってしまった私は、不図私を呼ぶ彼の声にびっくりして飛起きた。

 彼は痩せた両手に枕を高く挙げ、頻りに打返しては眺めていた。何だかひどく興奮しているようであった。

 どうしたと覗き込むと体が痛いから、少し揉んで呉れないか。と云う。早速背中から腰の辺を揉んでやると、いつもは一寸触っても痛いと云うのに、その晩に限って、もっと強く、もっと強くと云う。どうしたのかと不思議に思っていると、彼は血色のいい顔をして、眼はきらきらと輝いていた。

 こんな晩は素晴らしく力が湧いて来る。何処からこんな力が出るのか分からない。手足がぴんぴん跳ね上がる。君、原稿を書いて呉れ。と云うのである。

 いつもの彼とは容子が違う。

 それが死の前の最後に燃え上がった生命の力であるとは気がつかなかった。

 おれは恢復する、おれは恢復する。断じて恢復する。それが彼の最後の言葉であった。

 私は周章(あわ)てふためいて、友人達に急を告げる一方、医局への長い廊下を走り乍ら、何者とも知れぬものに対して激しい怒りを覚えバカ、バカ、死ぬんじゃない、と呟いていた。

 涙が無性に頬を伝わっていた。

 ・・・・こうして彼が何の苦しみもなく、安らかに息を引き取ったのは、夜もほのぼの明けた午前五時三十五分であった。

 もはや動かない瞼を静かに閉じ、最後の訣別をすますと、急に突き刺すような寒気が身に沁みた。彼の死顔は実に美しかった。

 彼の冷たくなった死顔を凝視(みつ)めて、私は何かしらほっとしたものを感じた。その房々とした頭髪を撫で乍(なが)ら、小さく北條北條と呟くと、清浄な胸元をぐっと突上げ、眼頭が次第に曇って来た」

 以上、その心痛がひしと伝わる「臨終記」の抜粋である。

 この東條耿一も、「臨終記」を書いた10年後、北條民雄と同様に癩院で逝去した。

 これを読む限り、「いのちの友」という言葉が、単にフラットな友情を説明する軽量感とは切れていることが瞭然とするだろう。

 東條耿一にとって、「いのちの友」である北條の死は、決してあってはならない事態であった。

 いつか必ずやって来るそんな事態が本当に、そのとき突発したのだ。

 拙い文章によるこの記録の中に、閉鎖空間の状況下で、ギリギリに己が〈生〉を繋いで生きようとする魂が切り刻まれる恐怖の肉声が、そこにあった。


(注1)「らい病」を漢語で呼ぶようになったのは明治以降で、江戸時代以前は一般的に、不完全な姿で座っている者を意味する「片居」から、「かったい」と称されていたと言われている。言うまでもなく、現在は病原菌の発見者の名をとって、ハンセン病と呼ぶのが正しいとされる。


(「心の風景/北条民雄、東條耿一、そして川端康成 ―― 深海で交叉するそれぞれの〈生〉」より)http://www.freezilx2g.com/2010/05/blog-post.html(2012年7月5日よりアドレスが変わりました)