スポーツの風景

 “スポーツ”― それは、現代を眩く彩る様々なる快楽仕掛けの一つである。しばしば最も安上げりで、最も効率の良い特段の仕掛けとなって巷間を過剰なまでに泡立たせている。

 それが運んで来る熱狂と興奮は、殆ど空疎で狭隘なイデオロギーを蹴散らせて、人々を過剰に繋ぎ、必要以上に共振させ、意識の隅々を危ういまでにクロスさせていく。そこに溢れ返った情緒は空気を制覇し、無造作に束ねられた網のように絡み合って、心地良き波動となって天を突く。

 ドームという人工空間の中では、沈黙は悪であり、瞑想は邪道である。

 そこでは自我を解放し、叫び、舞い、暴れることが善である。都市の展開の一つの知恵の、極めて巧妙な空間的帰結点、それがドームである。一見、無秩序に展開しているかのような都市に、最大許容点で区切った秩序を強いた上で、そこにたっぷりと円形劇場の快楽を仕立てていく。ドームは、現代のコロシアム(注1)なのだ。

 剣闘技(注2)ならぬ、眩いまでの制服に身を包んだプレーヤーの真剣な野外公演に、絶妙なタイミングで反応していく消費者は、この消費の只中に、無造作に出し入れさせる躁感覚の気分を印象的に刻印して、これが人々を継続的にコロシアムに繋いでいくパワーとなる。

 円形劇場の魔力は、視覚的には、それを遮断する何物もない稜線から眺望したときの、一大スペクタクルの快楽を充分に髣髴(ほうふつ)させるが、更にそこには、それ以上の劇場的効果が加わるから、サーカスを要求し続けたローマ市民の群れが、そのままドームにタイムトリップしてきたものと見ることもできるだろう。

 また、食肉としての牧畜と宗教儀礼が結合した、歴史的継続力を持つスペイン闘牛(注3)の文化的表現力よりも、ドームという名の特定的に仕切られた機械仕込みの劇場における、近代スポーツの極限的展開の方が、遥かに時代の気分を炙(あぶ)り出している。

 いつの時代でも、大衆的熱狂の本体は躁状態の人工的な仕立てであって、まさにこの仕立てのための消費財の一つとして、近代スポーツの立ち上げが待望されたと言っていい。
 
 因みに、アニマルライツ(動物の権利)やアニマルウエルフェア(動物福祉)の倫理的文脈から見れば、スペイン闘牛の文化的普遍性は既に崩壊していて、EUのスペイン闘牛への融資に抗議して、PETA(動物の倫理的扱いを求める人々の会)のメンバーによるダイ・インが実行される事態に象徴されるように、時代と整合性を持っていたはずの闘牛における大衆的熱狂の仕立ては、今や、人工的な観劇システムによって倫理的に秩序付けられない限り、文化としての市民権を確保できなくなったということだ。
 
 ともあれ、近代オリンピックを創設したクーベルタン男爵(注4)の意図が、大衆的熱狂を戦争以外のものに求めることにあったのは周知の事実である。スポーツによる国家間の代理戦争によって大衆的熱狂を仕立てられれば、国際平和の実現が容易に具現できると安直に把握したわけではないだろうが、この知恵深い、際立って人間学的な方略がスポーツの近代化と国際化、それに大衆的気分の躁的な集合化に道を開いたことは否めないだろう。

 近代スポーツは、それ故、自然に進化を果たしてきたのではない。

 ゴルフ、射撃、サッカー、水泳、ラグビー、ヨット、自転車、ボクシング、ホッケー、バトミントン、テニ
ス、陸上競技、などはイギリスで、アメリカンフットボール、野球、バスケットボール、バレーボールはアメリカで生まれ、より高度な技巧の進化によって現在に至っているのは周知の事実。それは多くの場合、近代スポーツとは隔たった素朴な娯楽の文化の中から、それを必要とする人々によって人工的に、理念的に発明され、発展を遂げていったのである。
 
 良かれ悪しかれ、何ものをも貪欲に商品化して止まない、自己膨張する資本主義。

 ここに重厚にアクセスすることで、私たちの近代スポーツは娯楽の一方の雄として、なお大衆の熱狂を仕立て続けている。そして一度開かれた熱狂に秩序の枠組みを巧妙に被せているから、熱狂が日常性を食(は)むことがなく、そこに継続力と自己完結性が保証されることになったのである。
 
 近代スポーツは大衆の熱狂を上手に仕立てて、熱狂のうちに含まれる毒性を脱色しながら、人々を健全な躁状態に誘(いざな)っていく。この気分の流れは、「勝利→興奮→歓喜」というラインによって説明できるだろう。

 まず何よりも、近代スポーツは、勝利という事実による紛う方ない躁気分の報酬を受けること。これが第一義的価値となる。勝利感が興奮状態を作り出し、これが歓喜の気分を人々の脳裡に深く焼き付ける。そしてそれぞれのゲームごとに、自己完結感が届けられることになるのである。近代スポーツが、必ずしも予定調和のラインをなぞっていかない偶然性のゲームであればこそ、勝利感が開いた快適な気分のラインを、思い入れたっぷりにステップ・アップしていくことが可能になるのだ。近代スポーツでは、勝利という概念に含まれる意味合いこそが何より重要なのである。

 思うに、敗北という事実結果から躁状態を醸し出すには、局面的な満足感を上手に切り取って、それを近未来の勝利の予感に繋いでいけるような心情操作に成功した場合に限られる。敗北による自己完結感の中で夢が繋がれば、近代スポーツの継続力に衰弱の翳りは見られないのである。

 勿論、勝敗など度外視して、スポーツを純粋に楽しむという人がいても当然構わないが、多くの場合、それを遊びとして興じているに過ぎない。相手を必要とするスポーツで、記録を残さず、ただ楽しむだけに身体を展開するゲームを観る者もまた、勝敗抜きにゲームと付き合うという世界は、殆ど前近代の何かであるか、或いは、単に社交のツールとしてのゲームでしかないであろう。

 ジョギングがマラソン競技と異質なスポーツであるように、勝敗による自己完結性を持たないスポーツは、ここ百年間の間に欧米で発明された近代スポーツのラインから逸脱するものである。無論、そんなラインからの逸脱を歓迎しないわけではない。それが近代スポーツの周辺で、個々の多様な事情に即した消費を果たしていればそれでいいだけの話である。
 
 然るに、ここでのテーマは近代スポーツの風景である。

 そして、勝利こそ近代スポーツに於いては第一義的価値であった。

 共同体の喪失によって手放した、人々の自己完結感の希求が近代スポーツの中で具現したとき、恐らくそれまで遊びのカテゴリーの中にあったものが、より高速化された時代に見合った特段の娯楽の内に止揚されたのである。明瞭な勝敗の導入によって勝者と敗者が作られて、そのときのゲームの括りの中に、そこに思い入れ深くアクセスする人々の自己完結感を紡ぎ出した。近代スポーツは、近代が壊してきたものの甘美なエキスである自己完結的な日常感覚を、人工的に仮構するものとしても有効だったのだ。

 近代スポーツが勝敗主義を捨てられないのは、至極、当然なことなのである。勝敗によるゲームの括りなしにそれは成立するわけがなく、よしんば、近代スポーツが勝ち負けに拘泥しなかったと仮定したら、エンドレスな身体の転がし運動を誰も止められなくなって、祭礼の無礼講のように壊れる者が出て来るまで蕩尽し続けるだろう。
 
 勝利し、興奮し、歓喜すること。
 
 結局、近代スポーツはこのラインを目指す外にないのだ。これを一定のタームごとに消費する。自己完結感を手に入れて、明日に臨む自己の更新を図り、そこに少しばかりの熱量を含んだ時間を継続させていくのだ。この継続力が近代スポーツを支えていると言っていい。熱狂が仕立てられ、其処彼処で巨大な渦を作って、時代をいつも印象的に彩っていく。私たちの近代スポーツは、私たちの夢の欠片を代償的に満足させながら、なお進化を止めないでいる。

 近代スポーツが、勝者と敗者を作り出す飛び切りの娯楽であるという現実は、もう否定しようがないのだ。勝つか負けるかというところまで流れ着かないと、多くの人々の自我が落ち着かないのである。
 
 古い例だが、レヴィ=ストロース(注5)の「現代世界の人類学」(サイマル出版会刊)によると、ニューギニアの高地族にサッカーを教えたら、人々はサッカーに興じつつも、いつまで経っても勝敗によるゲームの決着をつけようとせず、だらだらとゲームを続けているばかりであった、という興味深い実話が紹介されている。

 前近代社会では、ビッグマンと呼ばれる長老を頂点とする、「秩序づけられた平等主義」というものが共同体のコアにあって、例えスポーツと言えども、この原理を壊しかねないような勝敗の決着は付けられないのである。人々を動かす原理が異なる社会では、スポーツの受容の仕方も異なるのということだ。と言うより、前近代社会には、「スポーツ」という概念そのものがなく、それに似たものは悉(ことごと)く「遊び」の概念の内に収まってしまうのである。

 それらは、身体を動かすゲームという意味に於いて、確かに身体運動文化という範疇に含まれるだろう。しかし、ロジェ・カイヨワ(注6)の言う、「競争」と「偶然」という要素(彼は「遊び」を、「模擬」、「眩暈(げんうん)」→「競争」、「偶然」という流れで定義した)が稀薄で、近代スポーツに特徴的な偶発的熱狂というものが、そこにはない。それは、気晴らし以上の何かではない。それらは関係的秩序を維持する手段でもあるから、当然の如く、共同体社会に深々と依拠する彼らが敗者を作り出す危険を敢えて冒すわけがないのである。

 この違いが、両者を決定的に分ける。

 近代スポーツでは、敗者の創出を不可避とする。敗者の創出によって、勝者は初めて価値を持つ。敗者の創出こそ、近代スポーツの本質であるとも言えるのだ。

 誰が誰に負けたか。どのように負けたか。

 それがここでは重要なのだ。狂わんばかりに地団駄を踏んで悔しがる敗者を相対化することで、初めて勝者の栄光を価値づける。これが近代スポーツなのだ。例え負けても、直ちに仲直りする遊びの秩序との違いは明瞭である。

 近代スポーツは、ある意味で戦争の代用品だった(注7)。

 死体を出さない代わりに、敗者にはとことん悔しがってもらう。恨んでもらってもいい。でもそこに一定のルールを設ける。その悔しさや恨みは、あくまでもフィールドの中で返報してもらう。フィールドの中のルールも守ってもらう。その上で、フィールドの限定的な枠内で競争する。これが近代スポーツの枢要なテーマの一つなのだ。

 このテーマを殆ど写しとってきたのが、サッカー・ワールドカップ(注8)である。それは一種の南北戦争であり、欧州内覇権戦争であり、しばしば本物の戦争のリベンジであり、時には本物の戦争への起爆剤にもなってしまった(注9)。

 それはオリンピックの熱狂の更に上を駆けて、まさに近代スポーツの本質と典型を集中的に映し出す。そして、ボールとゴールポスト以外の余計な装飾の一切を剥ぎ取って、人の進化の象徴である頭と脚のみを駆使して、一点をもぎ取る最も原始的、且つ格闘的スポーツ。このサッカーというスポーツこそ、人が昔、狩人であった記憶の残像を炙り出すのに充分過ぎるネイティブな競技なのだ。

 サッカーに同居する近代性と原始性。

 その象徴性こそ、キング・オブ・スポーツの名に相応しいとも言える。近代スポーツの華であるサッカーは、プリミティブな部分をいつまでも残しつつ、近代を呼吸する人々の熱狂を集合させて、より芳醇な快楽を保証する方向で時代を抜けていくかのようである。

 近代スポーツが開いた勝敗主義は、必然的に効率の原理を分娩してしまうのだろう。勝つことを至上とするスポーツは、勝つための効果を最大化する戦略を当然導き出すのだ。科学やその周囲の有効な情報を網羅し、応用することで、益々、近代スポーツは遊びから乖離していくのである。

 
(「スポーツの風景 」より)http://zilgs.blogspot.com/