スタンド・バイ・ミー('86) ロブ・ライナー <お子様映画の悲惨と退廃>

2  全てを失った偏見の極み  



 この「お子様映画」を貫流する独り善がりの善悪二元論(大人=悪⇔子供=善)と、そこに纏(まと)い付く気恥ずかしくなるような過剰な感傷に、正直吐き気すら覚えるからである。いや実際、この映画の中で、大人も子供も入り乱れて、あろうことか、お互いの顔面に吐瀉し合っているのだ。

 作家志望の主人公ゴーディ少年が、死体発見の徒歩旅行の地で自らの創作を披露するが、これは、そこでの劇中劇の一齣(こま)。
 
 要約すれば、地元の大人たちから「百貫デブ」と罵られた少年が、彼らにリベンジすべく、ひまし油をたっぷり飲んで早食い競争に参加した挙句、吐き気を催し、大人の顔面にその汚物を吐き下すという下品な話である。

 この下品な話の顛末の喰えなさは、子供の想像世界の膨張の果てに、「百貫デブ」を冷笑するためのコンクール会場が、やがてゲロ吐き空間になってしまうという愚劣さの中に集約されていると言っていい。

 この品位に欠ける描写に込める作者の、抜きん出た「子供共和国」的発想の幼稚さに、殆ど言葉を失ってしまう。

 この不快極まる映像を「名作」と評価する多くの大人たちは、そこに、自立に向かう子供たちの不安含みの息遣いを多いに感じとるのだろう。然るに、「悪意の妖怪」と化した大人たちへのリベンジに集合する情念のどこに、自立への苦きステップが読み取れるというのか。

 このゲロ吐きシーンをくどいほど描写する偏見の極みによって、この映像は全てを失った、と私は考える。
 


 3  感動を過剰に意識させた映画の様々な仕掛け



 更に気になるのは、感動を過剰に意識させた映画の様々な仕掛けである。
 
 美形の顔立ちの少年と、彼を取り巻く不遇な環境という、この種の映画に常套的に見られるベタな設定が、観る者の共感的理解の導入口として、まずそこにある。そして少年の本来の性格は純粋無垢であるが、周囲の大人の無理解や悪意によって、今それが歪められている、などという類型的な負性環境論が物語の骨格を成す。

 それ故、少年にとって、彼を囲繞する悪環境からの脱出が基幹的テーマとなり、同時に自立の具体的な検証になるという訳だ。現実はそんな単純な文脈で収まるはずがないのに、昔ながらの定番的なイメージでラインを決めてしまうのである。こういう人たちの人間理解は常に浅く、過剰なまでに理念的であるのは言うまでもない。
 
 映画の主人公、ゴーディ少年のイメージラインも、以上の枠組みからそれ程逸脱したものではない。

 一家の期待を一身に集めた兄の事故以来、少年の家族は求心力を失って、空洞化しつつある。無気力な両親から自分は愛されていないという不安が、少年をして、「お前が代わりに死んでくれたらなぁ・・・」という父親の述懐を、悪夢の中で拾ってしまう描写を挿入させてくる。いつしか私たちは、兄を喪って、家族の闇の中に孤立するゴーディ少年に感情移入させられていくのである。

 その広がりを伝わって、同様に、家庭的に恵まれないクリスやテディの感情世界に、私たちは共感的理解をもって連帯する。就中(なかんずく)、ゴーディとクリスという美形で、ピュアなイメージラインが奏でる物語の哀愁に、私たちの原点回帰の郷愁感が無防備に反応してしまうのである。

 沼地の蛭にゴーディ少年のペニスが吸われて、一瞬崩れゆく初心(うぶ)な魂が、一転して不良を拳銃で撃退するという出来過ぎの挿話に象徴される、危うさの中の健気な進軍譚は、既にたっぷりと感情移入させられている私たちの援軍の思いを掻き立てずにはおかないだろう。

 その思いに付着するほろ酔い気分こそ、私たちに感動を仕掛けてきた作り手たちへのシンパシーを支える感情ラインを成す、と言っていい。淡い酩酊感覚の記憶だけが、ある種の表現作品を名作のカテゴリーに留め置くのである。

 いい大人が、自分の過去をここまで美化できるその厚顔さの内実は、結局、達者な創作力によって手に入れたその後の成功が、その固有の病理であるかのようなナルシズムを、殆ど全開させてしまった有体を示すものではなかったのか。

 未だ思春期反抗の尖りの頂点を示す年齢にも達せず、当然世俗の垢で変色していない未成熟なる自我が、そこに泡立っていた。その中に蠢(うごめ)く同性志向の宇宙の懐の中にあって、そこでの関係爆発の目眩(めくるめ)く季節が開く、様々な刺激に充ちた情報だけが自我に張りついて、「恒久の友情神話」が其処彼処に立ち上げられるのだ。

 「スタンド・バイ・ミー」の愚かさは、ロマンチックな男たちのその幻想を極端に描写することで、自分の過去の鋭敏な感受性が現在の作家的立場を作り上げた、と暗に誇示するそのドロドロのナルシズムに全く抑制が効いていない点にある。感受性の豊穣さを露骨にセールスする映像と、自分が感動したものは万人も感動するものと決めてかかってくる映像ほど厭味なものはない。

 子供を主役に立て、彼らに無垢(実は無知)なるが故の異議申し立てをさせる狡猾さは、全く技巧の勝利などではないのだ。本作は、「お子様映画の悲惨と退廃」という把握が際立った作品だったと言うしかないだろう。

 因みに、「ペレ」(ビレ・アウグスト監督)、「ボクと空と麦畑」(リン・ラムジー監督)、「さよなら子供たち」(ルイ・マル監督)、「秋立ちぬ」(成瀬巳喜男監督)などの作品が優れているのは、思春期以前の子供の内側の揺らぎや緊張が冷静に写し撮られていて、何よりも周囲の大人がそこにしっかり描けているからである。それ以外ではない。
 


 4  進軍の律動で押し寄せてくる、独り善がりの直截なメッセージ  



 感傷だけの映像なら我慢できるのだが、そこに訳知りが顔の説教や、独り善がりの直截なメッセージが、進軍の律動で押し寄せてくるから厄介なものになるのだ。

 「E・T」や「フック」というスピルバーグ流の「子供共和国」への違和感は、こんな娯楽も子供には必要だという配慮の倫理学で煙に捲かれたら、大抵文句の言う気力もなくなって、何となくどうでもいい空気の中に気化されて、雲散霧消するだろう。どうしても馴染めないスピルバーグは、観なければいいだけの話なのである。

 「スタンド・バイ・ミー」もその大袈裟な題名はともあれ、あのゲロ吐き場面さえなければ素通りしたはずの映画だったかも知れない。この最も愚劣なシーンの中に、映像作家の大人一般に対する悪意にも似た意思を読み取って、私には笑って済ませなくなったのである。

 
(人生論的映画評論/スタンド・バイ・ミー('86) ロブ・ライナー <お子様映画の悲惨と退廃>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2008/10/86.html