「現代のロビンフッド」の快楽

 何者でもない者が「特定的な何者か」であろうとするために支払ったエネルギーコストより、そこで手に入れたベネフィットの方が上回っていると信じられ、且つそれが継続性を持ち得るとき、その者は自分が辿り着いたであろう、「特定的な何者か」についての物語の鮮度が保持し得る限りにおいて、その幻想に存分に酩酊し、泡立ちの森で遊弋(ゆうよく)するだろう。(写真はロビンフッド

 然るに、そこで仮構された自分についての新しい物語に自らが馴染んでいく速度よりも、そこで立ち上げられた「特定的な何者か」に寄せる他者からの賞賛の速度が上回るとき、そこに微妙だが、しかしほぼ確実に、自己同一性に関わる不具合を内側で合理的に処理できない、何かそこだけは極めてセンシブルな時間を作り出すに違いない。

 ここ20年間にも満たないインターネットの超加速的な普及によって、不特定多数の他者への自在で直接的な発信が可能になったことで、そこに無自覚に乗り入れていく者が、信じ難いほど簡便に「特定的な何者か」に変容し得る行程が開かれるに至った。

 しかし本来、何者でもない者が「特定的な何者か」に化けたとしても、その「特定的な何者か」を演じ続けることの難しさだけは未知の領域だったはずだ。

 未知の領域を開いた何者でもない者が、「特定的な何者か」であり続けることは、その「特定的な何者か」に内在すると幻想された「稀少性の価値」を、その時間の日常下で不断に表出することが求められることが故に、漸次、そこで消耗されるエネルギーコストが累積していくばかりか、それに随伴する精神的疲弊もまた肥大化し、いつしか「特定的な何者か」になったことによって手に入れた、えも言われぬ快感情報を相殺するパラドックスな心的風景を、その内側に作り出してしまうだろう。

 それは、完全なる未知の領域下にあって、不必要なまでに自我を拡大させていった当然過ぎるペナルティだが、そのペナルティのコスト計算への配慮を怠ってきた無自覚で、安直な時間と空間の跳躍が分娩した無秩序は、圧倒的な「文明の魔力と破壊力」を過小評価してきた、殆ど私たち自身の業(ごう)とも言える痼疾(こしつ)、宿痾(しゅくあ)であるのか。

 2008年から翌年にかけて、韓国のネット社会を揺るがした「ミネルバ現象」について思いを巡らすとき、私は以上のような感懐を持ってしまったのである。


 以下、「産経新聞」(2009・5・5)が伝えるこの特異だが、極めて時代性の色濃い事象を紹介する。

 「聯合ニュース朝鮮日報中央日報など韓国メディアの報道を総合すると、ミネルバは昨年3月~今年1月、大手サイトの掲示板に経済に関する280の書き込みをした。注目を集めるようになったのは、昨年9月の米証券大手『リーマン・ブラザーズ』破綻を5日前に“予言”したことがきっかけだった。

 さらに国際通貨基金IMF)の介入を招いた1997年の通貨危機当時と同水準の1ドル=1500ウオン割れという未曾有のウォン安も“予言”。『ミネルバ』の書き込みは『全集』としてネット上に広まり、《政府から疎外された貧しい人たちを助けたかった》との彼の書き込みから『現在のロビンフッド』ともてはやされた。

 神格化の動きはネットの世界だけにとどまらなかった。あるテレビキャスターは『政府は彼の言葉に耳を傾けるべきだ』と訴え、経済担当の元大統領首席秘書官は『国民にとって最も優れた経済の師』と評した。

 昨年12月末に『ミネルバ』が《政府が主要金融機関などにドル買いを禁じる緊急文書を送った》と書き込むと、政府は報道発表まで行い、これを打ち消した。検察当局が今年1月、公然とウソをネットに流し公益を害したとして、『ミネルバ』を電気通信基本法違反容疑で逮捕した。

 検察は12月の書き込みでドル買いが集中、政府が介入のため、20億ドル(約1800億円)以上を注ぎ込み、国に多大な損失を与えたと推算した。『逮捕は表現の自由を抑圧する』との野党議員らからの強い批判の中、逮捕・起訴の正当性を主張し、今月13日に懲役1年6月を求刑していた。

 だが、ソウル中央地裁は『当時、その内容がウソと認識していたと考えにくく、当時の状況から公益を害する目的があったとはみなせない』と判断し、無罪を言い渡した。検察は即日、控訴した。

 今月20日に釈放された『ミネルバ』は詰めかけた報道陣に『個人の権利を守るのがどれだけ難しいか考えるきっかけになった』と話し、ネットへの書き込みは続ける意志を表明した」(筆者段落構成)

 更に、同紙は「ミネルバ」の正体が経済の知識を持たない、一介の無職青年である事実を書き添えていく。

 「『ミネルバ』を名乗っていたのはパク・テソン氏。パク氏はネットの掲示板に自らの経歴をこう記していた。
 
 《30歳を過ぎて渡米し、修士号を取得、米ウォール街で企業の合併・買収(M&Aデリバティブ金融派生商品)取引にかかわったが、(97年の)祖国の通貨危機を傍観したことで罪悪感を抱いた…》

 ところが、1月の逮捕で『ミネルバ』は『31歳の無職』だったことが明らかになった。パク氏はソウルの工業高校から短大情報通信学科に進学。周囲は彼の印象を『平凡』の一言で語った。

 逮捕後、パク氏は弁護士に『通貨危機の際に友人の親が自殺し、苦しい生活を送る友人を目にした。自分の家庭は自分で守らないと思い、本やネットで独学で経済を学んだ』と述べた。経歴詐称は『文章の信頼度を高めるため』と供述したといい、『自分にこんなに大きい影響力があるとは思わなかった』と事件の広がりへの戸惑いを口にした。

 『ミネルバ』の本当の姿に『こんな若者に政府や国民が振り回されたのか』と失望が広がった」(筆者段落構成)

「本やネットで独学で経済を学んだ」だけで、社会に甚大な影響を与えてしまうという事実が内包する怖さに唖然とする思いだが、どうやらその知識のベースになったのが、「本当はヤバイ!韓国経済―迫り来る通貨危機再来の恐怖」(彩図社刊)という著著で有名なアルファブロガー出身の三橋貴明(経済評論家)であるらしいが、真偽のほどは定かではない。

「悪口の混ざったレベルの低いつぎはぎの論文に振り回される韓国社会の知的水準に対する反省を含め、ネット空間での自由と責任について活発な討論がいまからでも活性化されなくてはならない」

 以上のコメントは、韓国の保守系三大紙の一つである「中央日報」(2009.4.22)の記事からの引用である。

 著名な韓国女優、チェ・ジンシルの「ネット中傷自殺」に端を発した、例の「サーバー侮辱罪法案」の導入の際、当該国会が「ハンマー国会」と化した同国のネット事情の、その氾濫ぶりが常軌を逸していることはつとに知られている。

 以下、「聯合ニュース」が伝える、韓国のインターネット被害の実情である。

 「インターネット利用者の94.8%が個人情報の侵害など情報化による弊害が深刻だと認識しており、昨年1年間で利用者の3割が平均4.73回の被害を経験したと集計された。 放送通信委員会と韓国情報保護振興院が27日、昨年12月に個人インターネット利用者4000人と民間企業2800社を対象に同年の情報保護実態調査を行った結果を明らかにした」(9.2.27)

 相当程度において深刻なネット被害の実情が、ここにある。

 思えば、1969年にペンタゴンの一部局の下に作られた、「ARPANET」(アーパネット)の研究機関のコンピュータネットワークがインターネットの原型となって、現在のグローバルな加速的普及と定着をもたらしていったが、当時、それがもたらす弊害について警告した一部の専門家が存在したにしても、背後に組織を持たない一介のブロガーが発信する情報によって、一国の経済に多大な影響を与える事態の到来を正確に予測し、その使用の無秩序性に対して合理的な対処の方略について、果たして誰が問題提起したのだろうか。

 しばしば、そのメリットを上回るほどの昨今の如き甚大なネットの弊害が問題視されても(1992年に商用化された我が国では、現在、罰則規定なしの「有害サイト規制法」が施行)、既にそれなしに日常性が成立しない、PCという最強のツールを簡単に手放す人がいるとは到底思えないのだ。

(「時代の風景/「現代のロビンフッド」の快楽」より)http://zilgg.blogspot.com/2009/05/blog-post.html