1 炸裂する母娘の愛憎劇の極相を炙り出して①
「私は日々、生きる術を練習している。問題は自分が何者か分らないことだ。答えは見えない。誰かが、ありのままの私を愛してくれたら分るかも。でも、今の私にはそんな希望はない」
これは、牧師である夫のヴィクトールが、映像の冒頭で、苦労して記者になった妻のエヴァの、その処女作の一文を読み上げたシーン。
「いつか彼女に告げたい。ありのままの君を心から愛していると。だが、上手い言い方が見つからない。言葉にならないのだ」
これは、カメラに向かって語る牧師自身の思い。
そのエヴァが夫の許可を取って、国際的に著名なピアニストである母のシャルロッテに手紙を書いた。
7年ぶりに会いたいという内容だ。
13年連れ添ったレオナルドの逝去の報を知って、母を慰めたいというのが、その理由。
快諾する夫。
そして、母シャルロッテが牧師館にやって来た。
ヴィクトールとエヴァが静かに暮らす牧師館は、ノルウェー北部にある、風光明媚な平和な村にあった。
牧師館に到着早々、シャルロッテは、痛みで苦しむ中で死んでいったレオナルドの壮絶な最期の様子を、涙ながらに娘に語った。
「私、変わったと思う?」
話疲れたのか、母の声のトーンは一転する。
「昔のままよ」
遠慮げに、娘は答えた。
笑顔を振り撒く母に、娘は身構えながら言った。
「ママ、話があるの」
「え?」
「ヘレーナがいるの」
母の表情が、途端に変容した。
「不意打ちね」
「そう手紙に書いたら、来ないでしょ?」
「来るわよ」
「いいえ、来ない」
「レオナルドが死んだ上に、ヘレーナと対面だなんて」
「2年前に引き取ったの。ヴィクトールと相談して決めたのよ。手紙に書いたでしょ」
「知らないわ」
「読まずに捨てた?」
「何てこと言うの?」
「ごめんなさい」
「今日は会う気になれない」
「ママ、ヘレーナはとてもいい子よ」
「ママに会いたがっている」
「なぜ、療養所から引き取ったの?」
「一緒にいてやりたいの」
「その方が良いと?」
「ええ。私が世話できる」
「あの子の病気、昔よりもずっと進んでいるの?」
「ええ。そういう病気だもの」
「案内して」
「いいの?」
「仕方ないわ。自分勝手な人間には参るわ」
「私のこと?」
「早く参りましょう」
母はそう言って、嫌なことを早く片付けたい思いで隣室に入って行く。
この母に、脳性麻痺を病む実妹のヘレーナに会わせることが、エヴァの目的だったのだ。
聞き取りにくいヘレーナの言葉を、エヴァの説明つきで、形式的な母娘の会話が成立するが、部屋で一人だけになったとき、堪えていた母の不満が小さく噴き上がった。
それでもシャルロッテは、脳性麻痺の娘と会ったときの複雑な感情に捉われていく。
「恥をかかせるために、私を呼んだのよ。負い目を持たせるために。・・・でも、泣いてはダメ。あの子の大きな瞳。両手で顔を挟んだとき、喉の引きつれが見えた。何てこと!昔は抱き上げて、ベッドへ運んでやったのに…あの柔らかい弱々しい体。あれが私の娘?泣いてはダメ・・・こんなの沢山」
一方、エヴァは夫に満足げに報告する。
「母はショックを隠して、笑顔を作ってたわ。非の打ちどころのない演技だった」
そして、夕食の場に現れた母は、「きっと喪服を着て来るわ。演技で」というエヴァの予想を裏切って、赤いドレスで颯爽と姿を見せたのである。
それもまた、エヴァの感情を見越して、逆手に取ったもの。
夕食後のシャルロッテは、「不安に怯える母」というイメージを発信するのを回避するかのように、敢えて饒舌に振舞っていた。
そんな母に、エヴァはピアノを弾いてみせた。
ショパンのプレリュード(前奏曲)を、たどたどしく弾く。
緊張感を隠し切れなかった。
「良かったわ」
「ホントに?」
「あなたがね」
「どういう意味?」
「折角だから、何か別の曲を」
「批評を聞きたいの」
「悪くなかったわ」
「ママの解釈を教えてよ」
「それほど言うなら。技術的にはまあまあだけど、曲想の話だけをしましょう。情感と感傷は違うわ。冷静かつ明瞭に表現しなくては」
そこに、ピアノの本格的な教授が開かれた。
目八分に見る態度こそ露骨に示さなかったが、結局、母は娘のピアノの技巧を否定したいのである。
彼女は自らピアノを弾き、模範を見せた。
得意げにプロの腕前を見せる母に、劣等感を感じる娘は距離感を覚えるだけだった。
「分ったわ」
「怒ってるのね」
「怒ってなんかいない。昔はママを尊敬したけど、うんざりした時期も少しあった。今は別の意味で尊敬している」
打ちのめされて、萎縮する娘がそこにいた。
その直後の映像は、散歩を勧める母を、4歳の愛児エーリックを喪ったエヴァが、その愛児の部屋で過去の辛い思いを語るシーン
劣等感を抱かされた娘が、母に対して明らかに心理戦争を挑んでいるのだ。
「人間は素晴らしい生き物。想像を超えた存在よ。人間の中にあらゆるものがある。悪人、聖者、預言者、芸術家、偶像破壊者、一人の中にその全てがある。現実は一つではないのよ。無数の現実が重なり合って、お互いを取り巻いているの。境界はない。思考にも、感情にも。恐れが境界を作るだけ」
それは、自分の劣等感を相対化し、境界を作って生きる母に対する存分のアイロニーだったが、その後のヴィクトールの言葉によって、それが愛児を喪ったエヴァの複雑な感情を表現したものであることが判然とする。
このとき、母が無言だったのは、噴き上がりつつある感情を封印するためだったのか。
死んだ愛児のスライドを母に見せながら、ヘレーナの部屋に行ったエヴァを視認しつつ、ヴィクトールはシャルロッテに語りかける。
「プロポーズしたとき、彼女は“あなたを愛してない”と。恋人がいるのか?と聞くと、“誰も愛したことはない。愛し方を知らない”と。そして数年が過ぎた頃、エーリックが生まれた。私たちは子供を諦め、養子を考えていました。だが、エヴァは別人のように変った。前よりも陽気に優しく、活発になった。だが、急に何もかも変った。エーリックが死んで、私は何もかも白黒の世界に。しかし彼女の感情には、何の変化もなかったんです」
エヴァは、エーリックの死を受容してないのである。
そう言っているのだ。
(人生論的映画評論/秋のソナタ('78) イングマール・ベルイマン <母娘の愛憎劇を、その裸形の様相の極限まで描き切った室内劇>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/07/78.html
「私は日々、生きる術を練習している。問題は自分が何者か分らないことだ。答えは見えない。誰かが、ありのままの私を愛してくれたら分るかも。でも、今の私にはそんな希望はない」
これは、牧師である夫のヴィクトールが、映像の冒頭で、苦労して記者になった妻のエヴァの、その処女作の一文を読み上げたシーン。
「いつか彼女に告げたい。ありのままの君を心から愛していると。だが、上手い言い方が見つからない。言葉にならないのだ」
これは、カメラに向かって語る牧師自身の思い。
そのエヴァが夫の許可を取って、国際的に著名なピアニストである母のシャルロッテに手紙を書いた。
7年ぶりに会いたいという内容だ。
13年連れ添ったレオナルドの逝去の報を知って、母を慰めたいというのが、その理由。
快諾する夫。
そして、母シャルロッテが牧師館にやって来た。
ヴィクトールとエヴァが静かに暮らす牧師館は、ノルウェー北部にある、風光明媚な平和な村にあった。
牧師館に到着早々、シャルロッテは、痛みで苦しむ中で死んでいったレオナルドの壮絶な最期の様子を、涙ながらに娘に語った。
「私、変わったと思う?」
話疲れたのか、母の声のトーンは一転する。
「昔のままよ」
遠慮げに、娘は答えた。
笑顔を振り撒く母に、娘は身構えながら言った。
「ママ、話があるの」
「え?」
「ヘレーナがいるの」
母の表情が、途端に変容した。
「不意打ちね」
「そう手紙に書いたら、来ないでしょ?」
「来るわよ」
「いいえ、来ない」
「レオナルドが死んだ上に、ヘレーナと対面だなんて」
「2年前に引き取ったの。ヴィクトールと相談して決めたのよ。手紙に書いたでしょ」
「知らないわ」
「読まずに捨てた?」
「何てこと言うの?」
「ごめんなさい」
「今日は会う気になれない」
「ママ、ヘレーナはとてもいい子よ」
「ママに会いたがっている」
「なぜ、療養所から引き取ったの?」
「一緒にいてやりたいの」
「その方が良いと?」
「ええ。私が世話できる」
「あの子の病気、昔よりもずっと進んでいるの?」
「ええ。そういう病気だもの」
「案内して」
「いいの?」
「仕方ないわ。自分勝手な人間には参るわ」
「私のこと?」
「早く参りましょう」
母はそう言って、嫌なことを早く片付けたい思いで隣室に入って行く。
この母に、脳性麻痺を病む実妹のヘレーナに会わせることが、エヴァの目的だったのだ。
聞き取りにくいヘレーナの言葉を、エヴァの説明つきで、形式的な母娘の会話が成立するが、部屋で一人だけになったとき、堪えていた母の不満が小さく噴き上がった。
それでもシャルロッテは、脳性麻痺の娘と会ったときの複雑な感情に捉われていく。
「恥をかかせるために、私を呼んだのよ。負い目を持たせるために。・・・でも、泣いてはダメ。あの子の大きな瞳。両手で顔を挟んだとき、喉の引きつれが見えた。何てこと!昔は抱き上げて、ベッドへ運んでやったのに…あの柔らかい弱々しい体。あれが私の娘?泣いてはダメ・・・こんなの沢山」
一方、エヴァは夫に満足げに報告する。
「母はショックを隠して、笑顔を作ってたわ。非の打ちどころのない演技だった」
そして、夕食の場に現れた母は、「きっと喪服を着て来るわ。演技で」というエヴァの予想を裏切って、赤いドレスで颯爽と姿を見せたのである。
それもまた、エヴァの感情を見越して、逆手に取ったもの。
夕食後のシャルロッテは、「不安に怯える母」というイメージを発信するのを回避するかのように、敢えて饒舌に振舞っていた。
そんな母に、エヴァはピアノを弾いてみせた。
ショパンのプレリュード(前奏曲)を、たどたどしく弾く。
緊張感を隠し切れなかった。
「良かったわ」
「ホントに?」
「あなたがね」
「どういう意味?」
「折角だから、何か別の曲を」
「批評を聞きたいの」
「悪くなかったわ」
「ママの解釈を教えてよ」
「それほど言うなら。技術的にはまあまあだけど、曲想の話だけをしましょう。情感と感傷は違うわ。冷静かつ明瞭に表現しなくては」
そこに、ピアノの本格的な教授が開かれた。
目八分に見る態度こそ露骨に示さなかったが、結局、母は娘のピアノの技巧を否定したいのである。
彼女は自らピアノを弾き、模範を見せた。
得意げにプロの腕前を見せる母に、劣等感を感じる娘は距離感を覚えるだけだった。
「分ったわ」
「怒ってるのね」
「怒ってなんかいない。昔はママを尊敬したけど、うんざりした時期も少しあった。今は別の意味で尊敬している」
打ちのめされて、萎縮する娘がそこにいた。
その直後の映像は、散歩を勧める母を、4歳の愛児エーリックを喪ったエヴァが、その愛児の部屋で過去の辛い思いを語るシーン
劣等感を抱かされた娘が、母に対して明らかに心理戦争を挑んでいるのだ。
「人間は素晴らしい生き物。想像を超えた存在よ。人間の中にあらゆるものがある。悪人、聖者、預言者、芸術家、偶像破壊者、一人の中にその全てがある。現実は一つではないのよ。無数の現実が重なり合って、お互いを取り巻いているの。境界はない。思考にも、感情にも。恐れが境界を作るだけ」
それは、自分の劣等感を相対化し、境界を作って生きる母に対する存分のアイロニーだったが、その後のヴィクトールの言葉によって、それが愛児を喪ったエヴァの複雑な感情を表現したものであることが判然とする。
このとき、母が無言だったのは、噴き上がりつつある感情を封印するためだったのか。
死んだ愛児のスライドを母に見せながら、ヘレーナの部屋に行ったエヴァを視認しつつ、ヴィクトールはシャルロッテに語りかける。
「プロポーズしたとき、彼女は“あなたを愛してない”と。恋人がいるのか?と聞くと、“誰も愛したことはない。愛し方を知らない”と。そして数年が過ぎた頃、エーリックが生まれた。私たちは子供を諦め、養子を考えていました。だが、エヴァは別人のように変った。前よりも陽気に優しく、活発になった。だが、急に何もかも変った。エーリックが死んで、私は何もかも白黒の世界に。しかし彼女の感情には、何の変化もなかったんです」
エヴァは、エーリックの死を受容してないのである。
そう言っているのだ。
(人生論的映画評論/秋のソナタ('78) イングマール・ベルイマン <母娘の愛憎劇を、その裸形の様相の極限まで描き切った室内劇>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/07/78.html