大誘拐('91) 岡本喜八 <「獅子の風格と、狐の抜け目のなさと、パンダの親しさを兼ね備えた人格」の支配力の凄み>

 困っている人間を積極的にサポートする、幾多の慈善事業に取り組む程に、スケールの大きな包括力を有する山林王は、「善良性」を垣間見せる若者たちを、無傷で生還させねばならないと括ったのであろう。

 そこにはもう、山林王と若者たちとの間で、ストックホルム症候群(犯人に親近感を抱くこと)とリマ症候群(人質に親近感を抱くこと)の双方、即ち、明瞭な「共犯性」が生まれていて、彼女はいよいよ、「100億円身代金目的誘拐事件」を若者たちに提示し、実行に移していく。

 しかし、若者たちを無傷で生還させるという制約が、その後のストーリーラインを縛っていくので、実際の事件の展開は奇想天外で、アンチリアルな様相を呈するが、ユーモア含みのサスペンス的な、程良い緊張感との均衡が担保されていて、一級の娯楽映画の王道が開かれていく。

 もとより、本作は、「犯罪サスペンスドラマ」と「ヒューマン・コメディ」という枠組みの内にあるが、前述した制約により、後者が前者を最後まで支配していくというストーリーラインの構造は崩されることはないのだ。

 そして、事件の大成就と、若者たちの無傷の生還。

 そればかりではない。

 山林王は、自分の子供たちが100億という大金を捻出する気概を持つか否かについて、試している節があったが、無事、それをもクリアした。

 全世界のメディアに配信された「大誘拐」の渦中で、彼女は自分の一族郎党をも無傷で生還させるに至ったのである。

 そして、問題のラストスーン。

 彼女の世話を受け、現在は県警本部長になって事件を担当している男との、緩やかな直接対決が開かれた。

 男には「大誘拐」の犯人が、既に山林王以外に考えられないと把握したが、100億の大金の行方と、犯人である若者たちが味を占めて、次の犯行に連鎖していくリスクの有無を確認する必要があった。

 緩やかな直接対決の中で、それは有り得ないと確信する男と、山林王との間に黙契が成立し、ハッピーエンドのうちに閉じられていく。

 ―― 要するに本作は、原作(創元推理文庫)にもあるように、「獅子の風格と、狐の抜け目のなさと、それに、パンダの親 しさを兼ね備えた人格」と、男によって評される人間性の主である件の山林王が、「女スーパーマン」と化して、その根源的推進力(知略・戦略・胆力)によって展開された、紛う方なく、一級の「娯楽活劇」であったということだ。

 或いは、誘拐される者のアウトリーチによって、誘拐する若者たちの「善人性」が小出しにされ、継続的に引き出されていくという類の、極上の「ヒューマン・コメディ」に収斂されるドラマでもあった。

 しかし本来は、「面白いだけのヒューマン・コメディ」の枠内に収斂されていくドラマであるにも関わらず、ユーモア含みの「犯罪サスペンスドラマ」との均衡を保持するが故に、サスペンスの王道を担保させるに足る、誘拐される者のモチーフを、「社会派的テーマ性」(3で言及)のうちに求める物語を紡ぎ出していってしまうのだ。

 厭味を込めて言えば、そういうドラマであった。
 

(人生論的映画評論/大誘拐('91) 岡本喜八 <「獅子の風格と、狐の抜け目のなさと、パンダの親しさを兼ね備えた人格」の支配力の凄み> 」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/12/91_14.html