全ては、主人公を含む3人の少年による、一人の男への常軌を逸した悪戯によって開かれた。
その「事件」から、本篇を貫く、理不尽とも言える「悲劇の連鎖」が繋がっていったからである。
最後に、「少女殺し」によって全てを失う少年の、その後の人生の時間が完全にフリーズされ、今や廃村となった、ウェールズの故郷に戻る男の内側で暴れる、少年期の時間が深々と刻まれていて、自我の深奥に封印し切れないほど重い闇の記憶が、男を湖の彼方に沈めていくのである。
映像を通して、要所要所で相貌を見せる「満月」の存在性は、「Un Nos Ola Leuad」(カラードグ・プリチャードというウェールズ詩人の原作あるが、未読)というウェールズ語の原題を英訳した、「One Moonlit Night」(ある月夜)というタイトル名によっても分るように、そこに象徴的意味合いが被されているのは間違いないだろう。
それは、人々の見えにくい罪悪の限りを照射する、「神」の支配力の灯光を表しているように思えるが、実際のところ不分明である。
その「満月」の夜に、ジニという淫乱扱いされている少女に、悪戯した罪で一人の男が村人に捕捉された。
これが、映像の回想シーンの始まりを告げた。
ジニに悪戯した男は、哀れにも精神病院で殴られ死んでしまうが、一言で言えば、「知恵遅れ」と蔑まれた男の、殆ど予約された悲劇であった。
そのジニと性的関係を持つのが、小村の牧師である教師だったという爛れ方。
また、家賃が払えずに、収容所に連れられる男の話の後は、少年の叔父が日常的な夫婦喧嘩の末に、その場で食卓を払いのけて一暴れ。
いつものことらしいが、今回は、妻にナイフを突き付けて恫喝するという、物騒な暴力行使を伴う、何とも爛れ切った始末の悪さ。
挙句の果てに、トイレで首を括って自殺してしまうのだ。
彼もまた、精神を病んでいたのである。
ウェールズの貧しい小村で次々に出来する忌まわしき事件は、ルール違反を許さない共同体社会の閉塞的な宿命であったのか。
そんな共同体社会にあって、少年の母の信仰心の篤さは折り紙付きだった。
優しき母の懐に抱かれて、賢い少年もまた、他の若者のように採石場で働くことなく、牧師を目指していたが、それは母の強い願望でもあった。
しかし、貧しい村では、採石場で働くことのない生活を切り開くのは困難であった。
「天にまします我らの父よ。どうか山盛りのポテトと肉を下さい。プリンと、色んなケーキと、ブドウパンと、チーズとハムと卵も、朝の食事に・・・」
これは、少年が唱えた、如何にも子供らしい即物的な祈り。
それでも、敬虔な母と、母を尊敬する少年の精神的風景は恵まれていた。
二人は会話を絶やさないのである。
母子の会話もまた、信仰に関するものが多かった。
「こんな月夜に、神様の声を聞いたの?」と少年。
「そうよ。復活の日のように明るかったわ。御声は皆に話しかけた」と母。
「今夜も聞こえる?満月ってオレンジみたい」と少年。
こんな会話もあった。
「狂った人も天国に行く?」
「罪を洗い流せば、皆、天国に行けるわ」
「狂った人」が身辺を騒がす、閉塞的な共同体社会の臭気を嗅ぐ環境下にあって、少年の自我は鋭敏に反応しているのだ。
慈悲深き敬虔な母と、その母の影響を受け、悪戯盛りの少年は、何より健全な自我を育んでいる風景が、そこに垣間見える。
そんな母子に、二人の一生に決定的な影響を与える「受難」が襲いかかって来た。
その「受難」を招来したのは、少年が関与した一つの「事件」によってだった。
悪戯盛りの少年が3人組の「徒党」を組んで、一人の男を嘲弄したのである。
男の名は、ウィル。
ウィルは鋳物製品の修理などをする鋳掛け屋であるが、人格障害を思わせる性格の「歪み」や、その醜い相貌から村人たちから差別されていた。
村人たちの偏見の視線は、当然、村の子供たちの人間観に影響を与えざるを得ない。
採石場の丘の上で、「ウィルの馬鹿」と嘲弄し、男が引くリヤカーに手を出すを3人。
ところが、そこに異変が起こった。
ウィルが突然、癲癇発作で倒れてしまったのだ。
恐れを為して、少年は逃げていったが、「悲劇の連鎖」が母子に襲いかかって来たのは、この「事件」からだった。
以下の稿で、個人の力では抗い難い「悲劇の連鎖」について書いていく。
本作の核心であるからだ。
(人生論的映画評論/ワン・フルムーン('92) エンダヴ・エムリン <「悲劇の連鎖」が「贖罪の物語」の内に自己完結する映像の凄味> 」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/04/92.html
その「事件」から、本篇を貫く、理不尽とも言える「悲劇の連鎖」が繋がっていったからである。
最後に、「少女殺し」によって全てを失う少年の、その後の人生の時間が完全にフリーズされ、今や廃村となった、ウェールズの故郷に戻る男の内側で暴れる、少年期の時間が深々と刻まれていて、自我の深奥に封印し切れないほど重い闇の記憶が、男を湖の彼方に沈めていくのである。
映像を通して、要所要所で相貌を見せる「満月」の存在性は、「Un Nos Ola Leuad」(カラードグ・プリチャードというウェールズ詩人の原作あるが、未読)というウェールズ語の原題を英訳した、「One Moonlit Night」(ある月夜)というタイトル名によっても分るように、そこに象徴的意味合いが被されているのは間違いないだろう。
それは、人々の見えにくい罪悪の限りを照射する、「神」の支配力の灯光を表しているように思えるが、実際のところ不分明である。
その「満月」の夜に、ジニという淫乱扱いされている少女に、悪戯した罪で一人の男が村人に捕捉された。
これが、映像の回想シーンの始まりを告げた。
ジニに悪戯した男は、哀れにも精神病院で殴られ死んでしまうが、一言で言えば、「知恵遅れ」と蔑まれた男の、殆ど予約された悲劇であった。
そのジニと性的関係を持つのが、小村の牧師である教師だったという爛れ方。
また、家賃が払えずに、収容所に連れられる男の話の後は、少年の叔父が日常的な夫婦喧嘩の末に、その場で食卓を払いのけて一暴れ。
いつものことらしいが、今回は、妻にナイフを突き付けて恫喝するという、物騒な暴力行使を伴う、何とも爛れ切った始末の悪さ。
挙句の果てに、トイレで首を括って自殺してしまうのだ。
彼もまた、精神を病んでいたのである。
ウェールズの貧しい小村で次々に出来する忌まわしき事件は、ルール違反を許さない共同体社会の閉塞的な宿命であったのか。
そんな共同体社会にあって、少年の母の信仰心の篤さは折り紙付きだった。
優しき母の懐に抱かれて、賢い少年もまた、他の若者のように採石場で働くことなく、牧師を目指していたが、それは母の強い願望でもあった。
しかし、貧しい村では、採石場で働くことのない生活を切り開くのは困難であった。
「天にまします我らの父よ。どうか山盛りのポテトと肉を下さい。プリンと、色んなケーキと、ブドウパンと、チーズとハムと卵も、朝の食事に・・・」
これは、少年が唱えた、如何にも子供らしい即物的な祈り。
それでも、敬虔な母と、母を尊敬する少年の精神的風景は恵まれていた。
二人は会話を絶やさないのである。
母子の会話もまた、信仰に関するものが多かった。
「こんな月夜に、神様の声を聞いたの?」と少年。
「そうよ。復活の日のように明るかったわ。御声は皆に話しかけた」と母。
「今夜も聞こえる?満月ってオレンジみたい」と少年。
こんな会話もあった。
「狂った人も天国に行く?」
「罪を洗い流せば、皆、天国に行けるわ」
「狂った人」が身辺を騒がす、閉塞的な共同体社会の臭気を嗅ぐ環境下にあって、少年の自我は鋭敏に反応しているのだ。
慈悲深き敬虔な母と、その母の影響を受け、悪戯盛りの少年は、何より健全な自我を育んでいる風景が、そこに垣間見える。
そんな母子に、二人の一生に決定的な影響を与える「受難」が襲いかかって来た。
その「受難」を招来したのは、少年が関与した一つの「事件」によってだった。
悪戯盛りの少年が3人組の「徒党」を組んで、一人の男を嘲弄したのである。
男の名は、ウィル。
ウィルは鋳物製品の修理などをする鋳掛け屋であるが、人格障害を思わせる性格の「歪み」や、その醜い相貌から村人たちから差別されていた。
村人たちの偏見の視線は、当然、村の子供たちの人間観に影響を与えざるを得ない。
採石場の丘の上で、「ウィルの馬鹿」と嘲弄し、男が引くリヤカーに手を出すを3人。
ところが、そこに異変が起こった。
ウィルが突然、癲癇発作で倒れてしまったのだ。
恐れを為して、少年は逃げていったが、「悲劇の連鎖」が母子に襲いかかって来たのは、この「事件」からだった。
以下の稿で、個人の力では抗い難い「悲劇の連鎖」について書いていく。
本作の核心であるからだ。
(人生論的映画評論/ワン・フルムーン('92) エンダヴ・エムリン <「悲劇の連鎖」が「贖罪の物語」の内に自己完結する映像の凄味> 」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/04/92.html