1 「完成形としての人間」の能力を前提とする認知の過誤
人間は不完全な存在体である。
目途にしたものを、最後まで、且つ、完璧に遂行し得るほどに完全形の存在体ではないと言い換えてもいいかも知れない。
そんな私は、「陰謀論」花盛りの文化の退廃性について、繰り返し痛感させられる思いを持つ。
何より、「陰謀論」が成立するには、それを「完遂」させるプロセスにおいて、その事件に関わる者たちの共通した認識と、シナリオ展開に背馳しないレベルの協力体制が不可欠である。
元より、人間は不完全形なので、その未来には予測し得ない物事が多く存在するということを無視できないだろう。
従って「陰謀論」を成立させるためには、陰謀を図る人間が完璧な計画と、完璧な実践を遂行するという前提が必要となるということだ。
だからと言って私は、この世に「陰謀論」の存在を全否定している訳ではない。
然るに、この世に「陰謀論」の存在を全否定していないことは、「陰謀論」の存在を無前提に認知するということと同義でないのである。
「陰謀論」の実践的成功が、累化された偶発性による奇跡との睦みの結果である場合も否定できないからである。
それにも拘らず、あまりに大掛かりな「陰謀論」が、世界的規模で真(まこと)しやかに独り歩きしているのは、「完成形としての人間」の能力を前提とする認知の過誤が罷(まか)り通っているからだ。
以下、不完全な存在体である人間を誘(いざな)って止まない、そんな「陰謀論」の心理的風景について言及していこう。
2 「確信幻想」の心理的根拠について
「陰謀論」の心理的風景を考えるとき、それを成立させ得る5つくらいの因子が注目に値すると思われる。
1.「確信幻想」 2.「情報占有の優越感」 3.「過度な権威主義」 4.「人間観の脆弱性」 5「イデオロギー」という因子である。
以下、例証していく。
その1。
「確信幻想」という極めて厄介な因子がある。
そして、この厄介な因子こそ、「陰謀論」に流れる最も中枢の心理的風景であると言っていい。
これについては詳細に言及していく。
まず、人間は「分らなさ」と同居することを不快に持つ存在体である。
この認知こそ、「確信幻想」の心理的根拠になるということを押さえておきたい。
それ故、「分らなさ」を手っ取り早く解決したいと願う。
そのとき、継続的なテーマ思考によって、自分の意見や主張の類を構築してきたと信じる者には、「分らなさ」を解決するに足る、充分な「確信」を手に入れることなしに済まないであろう。
知的過程に踏み込んだ者ほど、「確信」を手に入れることの価値を認知する者はいないからである。
だから、迷った末に、「アドホックな仮説」(その場凌ぎの仮説)に飛びついたりもする。
結局、自我の安寧を確保するためのこの知的戦略が、実は、他者との関係の中で大きく支配される感情であることを裏付けるのである。
ついでに言えば、知的過程に踏み込むことがない者でも、ごく普通の生活レベルで惹起した「分らなさ」に対して、そのまま放置する訳にはいかなくなるはずだ。
例えば、失恋した男が、その失恋の原因を一定程度了解し得ないまま、普通に遣り過ごすことなど有りようがないのである。
だから件の者は、自分を袖にした対象人格に、その理由の開陳を求めるだろう。
仮にそれが叶わなくても、相手の振舞いの変容の中で直感的に感受する何かを手に入れるに違いない。
そのことによって、件の者は、初めて「分らなさ」から解放されるのである。
あとは、その男が味わった固有の心痛の感情処理という、別の次元の問題が残されるだけだ。
ここから、「確信幻想」の本質に言及しよう。
以下、拙稿(「心の風景」の中の「確信という快楽」)から部分的に抜粋した文に加筆したものである。
一つの対象を映像化するとき、いつも同じイメージしか思い浮かばず、その類似のイメージを、自らの周囲で繰り返し確かめてしまうと、人は自分の観念を確信化してしまうようである。
人が「これは私の確信です」と言うとき、そこには自分の中にある不定形なイメージ群が、どこかで出会った類似の文脈によって、その信頼度を増幅させた経験が媒介されている場合が多いのだ。
イメージに変化が起きない限り、「確信」は生き続ける。
人は結局、イメージの束のその微妙な差異で衝突したり、その近接の中に深い共感感情を分娩したりするのである。
そして多くの人は、自分が生きる上で必要な情報を定着させていく。
だから大抵、狭い情報の圏内で確信的文脈が形成されるのだ。
人々のイメージのゲームには、独創的なまでの極端な歪曲もない代わりに、柔軟な修復力もあまり期待できないのである。
自我を安心させねばならないものがこの世に多くある限り、人は安心を求めて「確信」に向かうだろう。
しばしば性急に、簡潔に仕上がっている心地良い文脈を、「これを待っていたんだ」という思いを乗せて、飢えた者のように掴み取っていく。
前述したように、人間には、共存できにくい「分らなさ」というものが、常に存在するからなのだ。
それにも拘らず、「分らなさ」との共存は必要である。
自我を安心させねばならない何かが、引き続き、「分らなさ」を引き摺ってしまっていても、その「分らなさ」と暫く共存するメンタリティこそ尊重されねばならない。
「分らなさ」を継続させる意志には、小器用に展開できない自らの人生に対する誠実なる眼差しというものが、常に幾分かは含まれているのだ。
その信頼が、「分らなさ」との共存をギリギリに不快なものにさせないのである。
人間は不完全な存在体である。
目途にしたものを、最後まで、且つ、完璧に遂行し得るほどに完全形の存在体ではないと言い換えてもいいかも知れない。
そんな私は、「陰謀論」花盛りの文化の退廃性について、繰り返し痛感させられる思いを持つ。
何より、「陰謀論」が成立するには、それを「完遂」させるプロセスにおいて、その事件に関わる者たちの共通した認識と、シナリオ展開に背馳しないレベルの協力体制が不可欠である。
元より、人間は不完全形なので、その未来には予測し得ない物事が多く存在するということを無視できないだろう。
従って「陰謀論」を成立させるためには、陰謀を図る人間が完璧な計画と、完璧な実践を遂行するという前提が必要となるということだ。
だからと言って私は、この世に「陰謀論」の存在を全否定している訳ではない。
然るに、この世に「陰謀論」の存在を全否定していないことは、「陰謀論」の存在を無前提に認知するということと同義でないのである。
「陰謀論」の実践的成功が、累化された偶発性による奇跡との睦みの結果である場合も否定できないからである。
それにも拘らず、あまりに大掛かりな「陰謀論」が、世界的規模で真(まこと)しやかに独り歩きしているのは、「完成形としての人間」の能力を前提とする認知の過誤が罷(まか)り通っているからだ。
以下、不完全な存在体である人間を誘(いざな)って止まない、そんな「陰謀論」の心理的風景について言及していこう。
2 「確信幻想」の心理的根拠について
「陰謀論」の心理的風景を考えるとき、それを成立させ得る5つくらいの因子が注目に値すると思われる。
1.「確信幻想」 2.「情報占有の優越感」 3.「過度な権威主義」 4.「人間観の脆弱性」 5「イデオロギー」という因子である。
以下、例証していく。
その1。
「確信幻想」という極めて厄介な因子がある。
そして、この厄介な因子こそ、「陰謀論」に流れる最も中枢の心理的風景であると言っていい。
これについては詳細に言及していく。
まず、人間は「分らなさ」と同居することを不快に持つ存在体である。
この認知こそ、「確信幻想」の心理的根拠になるということを押さえておきたい。
それ故、「分らなさ」を手っ取り早く解決したいと願う。
そのとき、継続的なテーマ思考によって、自分の意見や主張の類を構築してきたと信じる者には、「分らなさ」を解決するに足る、充分な「確信」を手に入れることなしに済まないであろう。
知的過程に踏み込んだ者ほど、「確信」を手に入れることの価値を認知する者はいないからである。
だから、迷った末に、「アドホックな仮説」(その場凌ぎの仮説)に飛びついたりもする。
結局、自我の安寧を確保するためのこの知的戦略が、実は、他者との関係の中で大きく支配される感情であることを裏付けるのである。
ついでに言えば、知的過程に踏み込むことがない者でも、ごく普通の生活レベルで惹起した「分らなさ」に対して、そのまま放置する訳にはいかなくなるはずだ。
例えば、失恋した男が、その失恋の原因を一定程度了解し得ないまま、普通に遣り過ごすことなど有りようがないのである。
だから件の者は、自分を袖にした対象人格に、その理由の開陳を求めるだろう。
仮にそれが叶わなくても、相手の振舞いの変容の中で直感的に感受する何かを手に入れるに違いない。
そのことによって、件の者は、初めて「分らなさ」から解放されるのである。
あとは、その男が味わった固有の心痛の感情処理という、別の次元の問題が残されるだけだ。
ここから、「確信幻想」の本質に言及しよう。
以下、拙稿(「心の風景」の中の「確信という快楽」)から部分的に抜粋した文に加筆したものである。
一つの対象を映像化するとき、いつも同じイメージしか思い浮かばず、その類似のイメージを、自らの周囲で繰り返し確かめてしまうと、人は自分の観念を確信化してしまうようである。
人が「これは私の確信です」と言うとき、そこには自分の中にある不定形なイメージ群が、どこかで出会った類似の文脈によって、その信頼度を増幅させた経験が媒介されている場合が多いのだ。
イメージに変化が起きない限り、「確信」は生き続ける。
人は結局、イメージの束のその微妙な差異で衝突したり、その近接の中に深い共感感情を分娩したりするのである。
そして多くの人は、自分が生きる上で必要な情報を定着させていく。
だから大抵、狭い情報の圏内で確信的文脈が形成されるのだ。
人々のイメージのゲームには、独創的なまでの極端な歪曲もない代わりに、柔軟な修復力もあまり期待できないのである。
自我を安心させねばならないものがこの世に多くある限り、人は安心を求めて「確信」に向かうだろう。
しばしば性急に、簡潔に仕上がっている心地良い文脈を、「これを待っていたんだ」という思いを乗せて、飢えた者のように掴み取っていく。
前述したように、人間には、共存できにくい「分らなさ」というものが、常に存在するからなのだ。
それにも拘らず、「分らなさ」との共存は必要である。
自我を安心させねばならない何かが、引き続き、「分らなさ」を引き摺ってしまっていても、その「分らなさ」と暫く共存するメンタリティこそ尊重されねばならない。
「分らなさ」を継続させる意志には、小器用に展開できない自らの人生に対する誠実なる眼差しというものが、常に幾分かは含まれているのだ。
その信頼が、「分らなさ」との共存をギリギリに不快なものにさせないのである。