摂取性の原理

 「我々は黒人を人間以下で見ている限り何の問題も生じないが、いったん人間として直面すると握手をしても手を洗いたくなる」

 これは、昔読んだ本に載っていた、ジョージ・レオナードというアメリカ南部の白人の言葉である。

 相手が自分と同じレベルに近づいてくると、人間は自己の優位性を確保しようと懸命に動くということだ。

 「中国人を豚だと思えば平気で殺せる」と嘯(うそぶ)いた、旧関東軍の田中隆吉の言葉も、この文脈で考えると分かりやすい。

 人間の差異化感情は、「超えられる距離にいる人々」への価値的排除を本質とする。

 「お前は、もうこれ以上近づくな」と心の中で苛立っても、なお近づいてくる相手に価値的排除を断行するためには、自分のレベルを上昇させるより他にないのだ。それが困難になったとき、人々は周囲を徘徊する、「気になる他者」を排除しようとするのである。

 その昔、哲学者三木清(注1)も書いていたが、人間は天才やウルトラ奇人に対しては決して嫉妬しないのだ。紀州出身の生物学者民俗学者として著名な南方熊楠という「変人学者」の人気は、彼の人格性が、私たちの規範体系を完全に逸脱してしまっているからである。

 同様に、私たちが明らかな障害者を差別しようと思わないのは、彼らの存在が私たちの健常性観念から逸脱し、「可哀そうな人々」としか想念されないからである。

 ところが、相手の人格性がボーダーライン上に位置するや否や、様相が一変する。自分たちのレベルに近づいてくると思うと、必要以上に気になって仕方がなくなってくるのである。

 「イエスの方舟事件」(注2)の千石剛賢(せんごくたけよし/写真は在りし日のもの)氏が、かつて自らの思考が逢着したであろう、「摂取性の原理」という独自の概念を強調していたことが想起される。それは「不快な他者」を受け入れる原理であるが、如何にもキリスト者の氏らしい実践的原理であるだろう。

 然るにこの実践的原理は、「不快な他者」に「馴れる」ことによってしか貫徹し得ないと言っていい。言葉で言うのは簡単だが、その実践の継続の難しさは、多くの人が経験的に学習済みであると思われる。

 思うに、近代社会で私たちが獲得した「匿名特権」の代償として喪失した最大のメンタリティは、私たち自身のうちに部分的に受け継がれてきた「摂取性」の心理である。この社会では、プライバシーは保証してくれるが、その代り、「皆、好き勝手に生きろ」と突き放されて、それを秩序付ける大原理も大物語も提供してくれないのだ。

 恐らく、それで良いのだろう。

 「私権の拡大的定着」を具現した社会の中では、「生き方」や、そこに脈絡する物語のサイズ、有りように至るまで、自らが依拠する国家に保障してくれと懇望する方がどうかしているのだ。

 ただ、このような振幅の大きい文化の流れ方は、人々の差異化感情が収斂されていく方向を容易に持ちにくいから、しばしば徒(いたずら)に、その差異化現象の社会的拡散が巷間を過剰なまでに騒がせるに違いない。

 このように、人々の私権が暴走するかの如き社会になお呼吸を繋いでいくなら、その覚悟だけは固めておくべきだろう。切にそう思う。

 この社会では、「死者」が隠され、「病人」が隠され、「老人」が隠され、そして「人格障害者」との「パーソナル・スペース」が絶えず測られ、その安全距離の維持が選択的に確保されていく。

 「気になる他者」に「馴れる」ための学習から、私たちはますます遠ざかり、「摂取性の原理」を呆気なく相殺し得る「排除性の原理」が、なお「愛と平和」を語って止まない、欺瞞に満ちた振舞いを捨てられない人々のメタメッセージの内に含意された厄介な微毒として、和やかに、緩やかに、しかしそこだけは譲れないもののように半ば確信的に身体化されていくのか。


(注1)1945年、コミュニストを匿った罪で治安維持法違反に問われ、同年、東京の豊多摩拘置所で獄死。

(注2)千石剛賢氏が主宰する聖書研究会が、そこに通うメンバーの家族との軋轢によって、メディアからカルト扱いされ、1979年から翌年にかけて社会問題化した一連の出来事。千石氏は任意調査されるものの、書類送検にとどまり、最終的に不起訴処分となった。氏は2001年に逝去するが、今も聖書研究の活動は続いている。典型的なメディアスクラム(集団的過熱取材)の事件。
 
 
(心の風景/摂取性の原理 より)http://www.freezilx2g.com/2009/05/blog-post_18.html(2012年7月5日よりアドレスが変わりました)