自己満足感

 
 人は仕事を果たすために、この世界に在る。これは私にしかできないし、私がそれを果たすことで、私の内側で価値が生じるような何か、私はそれを「仕事」と呼ぶ。

 この「仕事」が、私を世界と繋いでいく。「仕事」は私によって確信された何かであり、私自身によって切り取られた世界の断片であり、私によってしか作り出されなかった、私の内側の価値である。

 この「仕事」に自己満足感が随伴してくれば、私は至福の境地に逢着するのだが、この「自己満足感」という代物が、実はとても厄介なのである。

 この厄介な感情を、私は簡単に二つに分けている。対象から受け取る満足感と、その対象に働きかけ、加工することで得られる満足感の二つである。

 前者はCDを聞いたり、映画を観たり、ご馳走を食べたりといった、消費に関わる満足感である。これを受動的満足感と言ってもいい。これに対して、後者は能動的な満足感である。

 これには、「自己達成感」と「自己成就感」がある。

 「自己達成感」は最後までやり遂げたという満足感であり、「自己成就感」は上首尾に終ったという満足感である。この二つの満足感が、「仕事を果たした私」という認知を内側に記録することで、自我を大いに活性化するのである。

 これに対して、受動的満足感のみでは、自我は己のサイズの実体感を測量できず、そのレアな感触を手に入れ難い。情報の洪水が、却って自我疲労を招き、感度も磨耗してくると、思いがけず、空虚感を生み出すことにもなる。満足感にはバランスが必要なのだ。受動性と創造的加工性というものの、共存的な満足度の安定的な均衡というものが、切に重要なのである。

 私たちは消費のみに偏らず、素材の加工の行程を介して、加工主体の実体感を測量し、それを感じ取り、確かめ、そこに細(ささ)やかな安寧を得る。この安寧が貴重なのだ。この細やかさが代えがたいのだ。このシンプルな生の循環性に自己完結感が保証されるとき、私たちはその等身大の人生に、一体これ以上、何を要求しようと言うのか。

 私は、以上の満足感を、“第一義的自己満足感”と呼んでいる。

 この小宇宙に自足する自我が、自己規範の行き届いた人生で得た幸福感を手放さない限り、必要以上に自我を肥大させずに、私は「私の仕事」を、私なりの律動性によって果たすものと確信する。

 大切なのは、この“第一義的自己満足感”のラインの内側で「私の仕事」を果たし切っていくこと―― これ以外ではない。

             受動的満足感
 自己満足感  {             自己達成感
             能動的満足感 {  
                        自己成就感
 
(心の風景 「自己満足感」 より)http://www.freezilx2g.com/2008/10/blog-post_28.html(2012年7月5日よりアドレスが変わりました)