勝手にしやがれ('59)   ジャン=リュック・ゴダール <「破壊」という極上の快楽>

 吐瀉物の如く吐き出される、殆ど内実を持ち得ない会話に象徴されるように、その「革命性」が注目された「物語性の曖昧化」によって、寧ろ、そこに炙り出されてくるイメージは、男の人生の刹那主義であると言っていい。

 刹那主義とは、「今、このとき」の快楽しか求めない性向だ。

 数え切れないほど違法行為を累加させてきた男の「犯罪人生」の中で、男の心象風景は、「逃避行」に存分の免疫ができると同時に、件の人生を延長させる「非日常の日常」の人生に飽きてきていた。

 それは、疲弊感であると言えるだろう。

 映画の原題の意味は、「すっかり息切れして」というもの。

 そんな男にとって、唯一の救いは、ヘラルド・トリビューンと関係するアメリカの女性留学生である。

 男には、そんな女と心中する覚悟すら感じられるのである。

 男の人生は既に老化していて、ひたすら死に向かって突き進んでいるかのようだった。

 そんな男との律動感の合わない関係の中で、女の好奇心が一時(いっとき)満たされるが、女は最後に裏切った。

 女には、「全身刹那主義者」の男の「無軌道なる脳天気さ」のうちに、べったり張り付く「自壊性向」のように、死に振れていくという人生の選択肢を持っていなかったからだ。

 例えば、男と女の重要な会話が、ラスト近くで拾われていた。

 「もう愛したくない。あんたと寝たのは、これが本当の愛なのか確かめるためよ。意地悪になれるのは、愛してない証拠だわね・・・・私は束縛が嫌いなの」
 「僕もそうだ」
 「愛してる?」
 「そう思いたければ」
 「だから密告したの」
 「殺し以下だな」
 「逃げた方がいいわ」
 「もう終わりだ。刑務所も悪くない」
 「バカだわ」
 「かもね」

 こんな男と「逃避行」を継続させても、女の近未来には、「共犯者」という「負の記号」か、或いは、「死」へと突き進むダークサイドのイメージしか待機していないのだ。

 それ故、女は男と共存することの「喪失のリスク」を計算し、半ば確信的に翻意したのである。

 女にとって、男との共存を延長させる時間に「本当の愛」が拾えないことを、そこだけは、紛う方なく確信してしまったのだ。

 しかし、「完全な裏切り」だけは避けたい。

 自我が相応の裂傷を蒙るからだ。

 だから、「共犯者」という「負の記号」を張り付けることなく、且つ、自我の相応の裂傷を回避するために、男を逃がそうとしたのである。

 元より、インタビューシーンにおいて生き生きしていた女は、「近未来の幸福」に繋がるイメージラインを決して反故にしない。

 男はそれを感受する。

 とうとう、男は逃げることすら断念する。

 「逃避行」の継続が抱え込む心理的重量感に、男は「息切れして」しまっているのだ。

 「逃避行」の継続を支え切る自給熱量が、殆ど枯渇しているのだ。

 「非日常の日常」の人生に疲弊した男の人生の選択肢は、もう「殺されるための逃走」を身体化する以外になかったのか。
 
 最期に、男は呟く。

 「全く最低だ・・・」

 女は、傍らの刑事に尋ねた。

 「今、何て言ったの?」
 「あんたが最低だと」と刑事。
 「最低って、どういう意味?」と女。

 「最低」という意味に拘りながら、「近未来の幸福」に繋がるイメージラインを決して反故にしない、固有の人生の選択肢を拾い上げた女が、そこにいた。

 〈生〉に振れる女は、〈死〉に向かって突き進む男の〈愛〉を受容できなかったのである。

 それが、「逃避行」の継続の〈刹那性〉が辿り着く、〈虚無〉の風景以外ではなかったからだ。

 「物語性の曖昧化」によって炙り出された本作は、少なくとも私にとって、そういう映画だった。


(人生論的映画評論/勝手にしやがれ('59)   ジャン=リュック・ゴダール  <「破壊」という極上の快楽>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/12/59.html