がんばっていきまっしょい('98) 磯村一路 <「頑張ったけど負けた」―― 或いは、「純粋動機論」という厄介なメンタリティ>

 1  夢スポーツの三命題



 甲子園という夢舞台で物語を作る「高校野球」の本質を、私は「純粋・連帯・服従」という三命題によって把握している。

 「夢スポーツの三命題」とも呼んでいる。

 彼らはスポーツ天使となって「純粋」を表出し、「連帯」を作り出し、「服従」を演じて見せる。

 天使たちはそこで、野外公演の有能なパフォーマーと化し、ステージの其処彼処(そこかしこ)にユニフォームの黒が駆け抜ける。

 しかし、決して踏み越えることはない。

 そこに眩い肉体が炸裂することがあっても、彼らが規範を踏み越えることは殆どないのだ。
 
 仲間のミスを責めないし、連投のエースが打ち込まれたら、このスポーツの本来的な性格から言って、多くの場合、マウンドに友情の輪が作られる。

 「連帯」こそ、夢スポーツの中枢的テーマなのだ。



 2  「頑張ったけど負けた」 ―― 或いは、「純粋動機論」という厄介なメンタリティ



 ところが、「がんばっていきまっしょい」という、中高年から熱く支持されている映画には、以上の「夢スポーツの三命題」の印象を受けないのだ。

 確かに、青春映画に張り付く暑苦しさが感じられない点において、印象度の高い本作では、「純粋・連帯」という「夢スポーツの命題」が確認されるが、肝心の「服従」という「命題」が欠落しているのである。

 この「服従」の欠落は、「権力関係」の形成力の弱さを物語っている。

 従って、そこには、「支配」と「服従」の確とした人間関係が不全であることを示している。

 原因は、この女子ボート部に、新任コーチとしてやって来た女の無気力さに根ざしている。

 「訳あり」の事情で郷土に戻って来た彼女には、元日本代表のコックス(ボート競技での舵手)という輝かしい経歴を持ちながら、殆どやる気(熱血性)がみられないのだ。

 彼女は、女子ボート部の5人の女性部員に一方的な指示(トレーニング・メニューの提示)を与えるが、そのフォローを全くしないのである。

 それでも、指示に従って、基礎体力作りに励む女性部員たちの信じ難い素直さが、映像の中で拾われていた。

 しかし、部員の中で最も熱心なヒロインの悦子には、コーチの無気力さが歯痒くてならない。

 だから彼女は、道後温泉でたまたま出会ったコーチに、自分の思いをぶつけたのである。

 「あたし、ボートがないと何にもないんです」

 この一件以来、コーチの指導の内実には、少なくとも二度目の新人戦を控えて、練習に励む部員たちへの技術的アドバイスが加わっていくが、しかし、そこでの関係の本質は、「支配」と「服従」という「権力関係」の形成には程遠いものであった。

 明らかに、本作の作り手は、「スポ根」ものの「青春スポーツ映画」の枠組みを壊したいのである。

 「権力関係」のこのような形骸化によって強調されるのが、5人の部員たちの「自立性」と「連帯感」というメンタリティである。

 そして、肝心の新人戦の日。

 順調に決勝戦まで勝ち進んでいったものの、東校女子ボート部員たちの奮闘虚しく、僅差で敗れ去った。

 そのシークエンスをクライマックスにした映像は、貧血症の悦子の苦痛をアップで捕捉しつつ、「がんばっていきまっしょい」という精神によって、心を一つにした少女たちのファイトがスローモーションで流されるのだ。

 そこに、リーテッシュが歌う、「Ogiyodiora」の透明感のあるBGMが流れて、カメラは執拗に、その必死のファイトを捕捉していくのだ。

 その間、2分30秒。

 「敗北の美学」こそ、「青春スポーツ映画」の醍醐味だと言わんばかりのそのシークエンスは、競争で淘汰されることを嫌悪する中高年の観客に、それ以外にないカタルシスを保証するのである。

 「頑張ったけど負けた」

 「勝負」という暑苦しい概念に、殆ど価値を見い出すことのないであろう作り手のメッセージが、そこに包含されていたのは言うまでもない。

 もっと言えば、この映画は、ボート部の活動に真摯に打ち込む5人の女子高校生たちの奮闘ぶりに仮託して、「頑張ったけど負けた。しかし、その敗北は美しかった」という基幹メッセージを、「結果よりも過程」、「勝利よりも努力」の価値を保持し続ける数多の日本人にまで敷衍させることで、言葉は悪いが、「競争=悪」という厄介なメンタリティに張り付く、「負け犬根性」を正当化する一篇であったと言えなくもないのである。

 なぜなら、件の厄介なメンタリティは、「結果よりも過程」、「勝利よりも努力」という把握によって、敗北に関わる現実から逃避し、「頑張った」事実のうちに何もかも浄化させ、そこで得る一種の「安心感」によって、「敗北の美学」という物語を仮構した自我を癒してしまう心理効果を生み出す、その一連の内的プロセス自身に価値を付与するからである。

 詰まる所、「闘争」、「競争」の心理圧にあまりに脆弱な数多の日本人にとって、この物語の中で浄化されれば、最も本質的な「負け犬根性」を認知せずに済むからだ。

 突飛なことを書くようだ、これが、「終戦記念日」としての8・15にのみ拘り、戦艦ミズーリー号で粛々と実施された、「敗戦記念日」としての9・2の歴史的事実の重量感を引き受けられない日本人的「負け犬根性」を、今なお延長させている由々しき現実ではなかったのか。

 「動機が純粋ならば、その結果の失敗は問わない」という類の、「純粋動機論」の厄介なメンタリティもまた、私たちの世俗のうちに頑強に根を張っているようである。

 この国は、いつまでたっても変らないのか。

 変えられないのか。

 「敗北」から学習できない脆弱さこそ、この国の人たちに多い痼疾(こしつ)であるだろう。


(人生論的映画評論/がんばっていきまっしょい('98)  磯村一路 <「頑張ったけど負けた」―― 或いは、「純粋動機論」という厄介なメンタリティ>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/12/98.html