ブロードウェイと銃弾('94) ウディ・アレン<人間理解の致命的な浅はかさという虚構の戯れ>

 本作の面白さの殆どは、ウディ・アレンの表現世界の基幹テーマとも言える、コミカルなオブラートに包ませた、理想と現実の乖離の悲哀と、その倒錯に関わる映像構築性の完成度の高さに因っているが、アレン映像の中で一つの到達点でもある本作は、一貫して無駄のないコメディタッチの律動感の中で、より人間ドラマの味付けを濃厚にさせることで、表現フィールドの広いコメディラインの枠組みからも解放するに至ったと言えるだろう。

 以下、本作の簡単なプロットを、ビデオジャケットの解説から引用する。

 「若き劇作家デビッドが遂にブロードウェイでデビュー。ギャングのボスの情婦で大根役者のオリーブを出す条件にデビッドは怒るが、落ち目の大女優ヘレンを主役に迎え何とかリハーサルに入る。

 ところがオリーブのボディガード、チーチが脚本に口をはさんできて、彼が直したセリフが好評を博し始める。苛立つデビッド、才能が花開くチーチ、新しい脚本に惚れ込むヘレン。

 下手なオリーブが邪魔になったチーチは彼女を消そうと目論み、それがボスにバレてしまう。いよいよ初日、ギャングたちの銃撃戦が繰り広げられる中で部隊の幕が上がるが・・・」(株式会社アスミック、『ブロードウェイと銃弾』ビデオジャケット解説より/筆者段落構成)

 これだけの物語である。しかし内容は明瞭なテーマ性を持っていた。


 ―― 以下、その要旨を簡単に拾っていく。


 「神様、僕は芸術を裏切った。成功の誘惑に勝てず?そう誘惑に負けた。ギャングの金と知ってて、承知した。悪魔と取り引をしてしまった」

 これは、恋人のエレンと寝ていたデビッドが、午前3時にベッドから飛び出して、突然、大声で喚き出したときの言葉。

 理由は言わずもがな、ギャングのボスの資金提供を条件に演出を引き受けた自己嫌悪以外ではない。

 そんな状況下でリハーサルが始まるが、大人の愛の縺(もつ)れをテーマにしたデビッドの観念的な初稿に、女優陣が異を唱えたが、ここでは精神科医役のオリーブのケースを紹介する。

 ギャングのボスの情婦であるオリーブは女優志願だが、学力不足に加えて大根役者ぶりが酷いから、“心には、心のルールがあるのよ”という台詞が全く理解不能の状態。

 更に、彼女は「医者は、なぜ“フィアンセを捨てろ”と?」

 「中尉に恋を」

 これがデビッドの答え。

 「だからって、フィアンセをさっさか捨てる?」とオリーブ。
 「衝動だよ」とデビッド。

 このデビッドの反応の中に、彼の観念的な台詞の独善性が露呈されていた。

 観客席の後方でリハーサルを見ていた、オリーブの用心棒のチーチが、ここで矢庭に立ち上がって、デビッドの台詞の硬直した内容に反発し、具体例を挙げて批判したのである。

 「女はフィアンセと別れない。中尉は家を出てから彼女に興味を持つ。その方がドラマティックだ」

 ここでデビッドは、その場にいたエレン(デビッドの恋人)やプロデューサーも、チーチの意見に同意したことで完全に孤立状態になった。

 「中尉は彼女を意識して、追い始める。現実もそうだ・・・」

 強面(こわもて)の殺し屋のチーチは、更に畳みかけるように台詞についての不満を指摘していった。

 演劇の流れを変えるチーチの最初の提言に不満を募らせたデビッドは、「降りる」と言って帰ってしまう始末。

 「アーティストは作品を弄(いじ)られるのを嫌う。貶(けな)されると、すぐカッとなる」

 これは、このチャンスに女優生命を賭けたヘレンの相手役となった、名優ワーナー・パーセルの言葉。

 結局、そのヘレンの忠告で、デビッドは台本のリライトを決めるに至った。

 「シルビアは大尉は愛しちゃいない。意のままに動かしているだけだ。筋を変えて、彼女が亭主を捨てることにする。それが罪の意識となって、神経がイカれる・・・医者がシルビアの感情を分ってりゃ・・・嫉妬するのも納得できる。そうなると、医者と中尉の対決が必要だ」

 今や、演劇の影の主役になりつつあったチーチによる台本のリライトは、ブロードウェイでの成功を願うデビッドにとって不可避な事態となっていったのである。

 「リアルな台詞で、客は芝居にのめり込むんだ」

 チーチのこの一言が、映像展開の流れを決定づけていったのだ。

 この後の映像展開は、殆ど観る者に予想し得る流れをフォローしていくが、演劇の才能に目覚めたチーチの暴走が、演劇の成功に大きな支障となっていた大根女優のオリーブの殺害にまで至るという過激性は、観る者の想像の範疇を明らかに超えていたが、このエピソードは「芸術至上主義」というアイロニーの文脈とは切れているだろうチーチという男の、その突沸の如き「才能爆発」の表現の極致と見ることができる。

 このオリーブ殺しの一件によって、チーチがギャングのボスに屠られるという展開は、「たった一本の名作」をこの世に遺して、地獄に墜ちたこの男の覚悟を身体表現するに相応しい括りだったと言える。

 「君を愛していて、僕はアーティストじゃない。結婚しよう」
 「いいわ」

 映像のラストは、自分の才能の限界を知ったデビッドのエレンに対するプロポーズと、その受容によって閉じられていくという、半ば予定調和のラインの内に収斂されていった。

 思えば、この映像の中で、最後までプロフェッショナルな戦略と行動によって自我を貫いた人物は、かつての大女優のヘレンであったと言えるかも知れない。

 往年の大女優だが、今は冴えない役しかオファーが来ないヘレンは、神経症(「不感症」)のマダムという自分の役柄に色気が加えるために、「あなたは未来のチェーホフよ」などと持ち上げながら、演出家のデビッドへのハニートラップによって復活を目指すプロ女優の精神の持ち主。

 こんなハニートラップが功を奏して、デビッドはヘレンの役に色気を加えるシナリオの修正をするが、デビッドのブロードウェイでの成功を予想して、今度は本気で彼を愛人の一人に加える強(したた)かさを持っていた。

 惨めなのは、自分の台本がチーチなしに完成しない状況を日常化させたデビッドの、そのアーティスト精神の崩れ方である。

 このアーティストは、恋人のエレンに、「あなたは女が分っていない。インテリの理屈っぽい分析じゃないとダメ?」と酷評される始末なのだ。

 既にこの描写の内に、「君を愛していて、僕はアーティストじゃない」という究極の自己認知の布石が打たれていたのである。

 最後に、演劇とは全く無縁な大根だが、ボスの肝煎りで精神科医の役を演じるオリーブは、外見的には愚昧な印象を受けるが、盗み食いをするワーナー・パーセルが自分に気があることを鋭く見抜く「女」としての観察力を持っていた。

 これが、ボスの「女」に居座ることができたプロ根性の表れであると把握できなくもないだろう。

 要するに、肝心のアーティストであったデビッドだけが、何事につけても、プロフェッショナルな戦略と行動の一貫性を欠如させていたということなのだ。

 
(人生論的映画評論/ブロードウェイと銃弾('94)  ウディ・アレン<人間理解の致命的な浅はかさという虚構の戯れ>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2009/12/94.html