散り行く花('19) D・W・グリフィス <メロドラマの「純愛性」のうちに閉じられる情感的イメージ ―― その「人間観察力」の脆弱さ>

 1  DVの破壊力と、自我の形成不全の有りよう



 DV(ドメスティック・バイオレンス)が、現代社会の特殊な「負の産物」としての暴力ではないことを証明する一篇。

 現代のように、私権の拡大的定着と人権感覚の飛躍的拡大が具現されていない90年前の社会風潮にあって、「言葉の暴力」など、今までDVと看做されていなかった事例までDVに含めるに至った、DVの定義の緩和という事態を目の当たりにするとき、本作で描かれたDVの様態は爛れ切っていて、遥かに剥き出しであったことを示唆してくれる。

 ところで、DVにはサイクルがある事実が知られている。

 「緊張」→「暴力」→「ハネムーン」というサイクルである。

 「緊張」とは、DV加害者が何某かの原因によってイライラしてくると、DV被害者は逸早く相手の気配を察知することで、不安感を一気に高める時期である。

 DV被害者の不安感に最近接したDV加害者は、却って相手の弱さを許せなくなって、より加虐的心理を惹起させ、その結果、「暴力爆発」が出来するのである。

 そして、「暴力爆発」が沈静化するや、例えばDV被害者が女性の場合、DV加害者は自分の行為を謝罪し、対象人格の同情心に働きかけたりするというもの。

 このとき、DV被害者である女性の心に、DV加害者の変容を期待する感情が生まれるのである。

 この「負のサイクル」が繰り返されることで、DVサイクルに終わりが見えない、深く救いようのない泥沼の関係を延長させてしまうということだ。

 以上の言及で判然とするように、この「ハネムーン」期の存在こそが、DVサイクルの陰湿な構造を端的に示すものである。

 「ハネムーン」期の存在によって、爛れ切った「権力関係」を作りやすくなることで、DVサイクルは拡大的に延長され続けていく。

 いつしか、この暴力に歯止めが効かなくなり、「ハネムーン」期が形骸化されることによって、最も悲劇的な結末を招来するに至るであろう。

 だから、このサイクルのリスクは甚大なものなのだ。

 そして、もう一点。

 自分を養育する直接的人格である「親」という名の成人の自我の有りようををモデルにして、子供は自らの自我を獲得するという問題である。

 と言うより、「親」という名の成人の「養育・教育」によって、子供の自我が形成されるということだ。

 とりわけ、父親から「父性」を、母親から「母性」を摂取し、それを肯定的、且つ否定的に形成していくプロセスは、子供の自我形成にとって由々しき発達テーマであると言っていい。

 然るに、その由々しき発達テーマの内化が、DVの破壊力によって障害された場合、社会的適応障害を含む自我の発達障害が顕著になり、人格総体の有りようにおいて、心理社会的発達の歪みが顕在化し得る危険性が高まるであろう。

 以上の把握を踏まえて、本作の批評に入りたい。

 ここでのテーマは、「人生論的映画評論」に則って、「DVの破壊力と、自我の形成不全の有りよう」とした。



 2  メロドラマの「純愛性」のうちに閉じられる情感的イメージ ―― その「人間観察力」の脆弱さ



 ところで、本作の父娘の関係の中で下品なまでに描かれているDVには、「ハネムーン」期が見られない。

 成人間の「権力関係」のケースと異なることを前提に書けば、「ハネムーン」期が見られないということは、娘に対する父親の暴力の様態が、完全に歯止めの効かない状態を延長させてきたことを意味するだろう。

 それは、娘を完全に私物化していることを意味していると言っていい。

 従って、「ハネムーン」期を持てない娘の自我の形成は相当に未成熟であり、その不全の状態が実母に去られた15年前から続いているとするならば、少女の自我形成の有りようは、父親に対する圧倒的な恐怖感に怯えるだけの屈折した自我しか作れなかったはずである。

 「15年前、母親に去られ、ルーシーは父親とともにスラムに流れて来た。マネージャーに酒と女を窘(たしな)められると、その怒りは弱い者にぶつけられた。気紛れな父親に怯えながら、スラムで生きる少女」

 サイレント映画のフィルムに刻まれたこの字幕が、父娘の関係構造の有りようを問わず語りに示していた。

 現に、本作の少女もまた、不全の自我の生存適応戦略の故に、必要以上に自分を素直に見せる、「良い子戦略」を選択する余地すらなかった。

 なぜなら少女は、「笑いを作って応える有効な戦略」すらも持ち得なかったからである。

 「ニッコリ笑え」と命令する父親。

 命令を聞かないと、「食事はお預け」になるのだ。

 「笑いを失った娘は、偽りの笑みを浮かべた」

 この字幕の毒気に、言葉を失う。

 指で唇を無理に開かせて、「娘は、偽りの笑みを浮かべた」のである。

 怯えるだけの少女の幼児的な自我は委縮する一方で、殆ど退路が塞がれていたのだ。

 少女にとって、父親の圧倒的暴力を突き抜けて、そこから疾走していくエネルギーすらも奪われていたはずである。

 それがたとえ制限的・抑制的でであったにしても、父親に抗弁する反応形成など起こりようがないのだ。

 DVが日常的に繰り返されていても、通常、経済的な事情などから女性は我慢し続けると言われているが、まして命令のままに動くだけの、父親の私物の機械的な玩具としてしか機能できない少女の、その人格総体の能力の有りようでは、ただ怯え、震えるだけの反応以外に為す術がないに違いない。

 然るに本作では、DV加害者である父親の暴力から逃亡し、かつて自分に救いの手を伸べた中国人青年の店舗に逃げ込んでいく。

 無論、偶然であるが、少女のこの逃避行動は了解可能である。

 ただ怯え、震えるだけの反応形成の延長として、DV被害者である少女は、退路が塞がれている限定的状況下で、殆ど朦朧(もうろう)と化した脆弱な人格の総体を投棄していったからである(注)。


(注)以下、物語の導入となった字幕を紹介する。それは、およそ中国人青年に見えない相貌の僧侶が、異国の地で挫折していくプロット説明である。

 「夕暮れ時になると仏教寺院に鐘が鳴る。これは、そのひびきを映し出した愛と哀しみの物語である。無力な我が子を鞭打つ父親はいないだろう。しかし、言葉や行動でその心を傷つける場合がある」

 「若者の夢は、野蛮で無秩序な西洋人に、心の安らぎを説くことだ」

 「ロンドンのスラムで店を広げる一介の商人に過ぎない」

 「若者の夢は、現実の生活の中で崩れ去った。新しい土地での辛い生活」

 しかし、賭博と阿片に明け暮れる日々が続き、若者の自堕落な生活が開かれていくという展開になる。


 ―― ところで、その際、中国人青年にとって、「愛くるしい美少女」が性的な対象人格として捕捉されていたことは、朦朧(もうろう)気味の男の顔が少女の美顔に接近するシークエンスによって明瞭である。

 中国人青年は、「愛くるしい美少女」を占有し得る空間にあって、単にストイックに振舞っただけなのだ。

 パーソナルスペースを突き抜けて最近接する中国人青年に対して、特段の怯えも見せず、ただ事態の推移に身を投げるだけの「愛くるしい美少女」が、そこにいた。

 因みに、その辺のキャプションは、以下の通り。

 「生まれて初めて触れた優しさ」

 「いつも怯える幼い心に一筋の光が差し込んで、少女は生まれ変わった」

 「月の光を少女の髪にあて、小さな手を握り、若者は一晩中、少女に寄り添った」

 「この肌の白い西洋の少女を、若者は“白い花”と名付けた」

 以上のキャプションこそ、物語の生命線となるシークエンスを補完するものであった。

 不安定な家庭で育った人間は、家族というミニ共同体の中で、人間関係の適切な戦略を習得できないが故に、未成熟な自我形成を常態化せざるを得ないであろう。

 従って、大人一般に対する反応は、必要以上に防衛的に身構えてしまうはずである。

 まして相手が、阿片漬けの東洋人であるなら、尚更、自己防衛的に反応するに違いない。

 この辺の描写の甘さが、私には気になってしまうのだ。

 作り手の「人間観察力」の脆弱さを感じざるを得ないのである。

 ともあれ、少女は病むようにして、中国人青年の店舗の緩やかな時間の中で、初めて得た「ハネムーン」の時間を作り出すが、このとき父親に対する震え慄く恐怖感が、少女の未成熟な自我のうちに過(よ)ぎらない訳がない。

 その後、父親に捕捉され、激しい「暴力爆発」の恐怖から「刑務所に行くことになるのよ!」などと抗弁するが、それは鞭で打たれるようなDVを常態化されてきた少女にとって、殆ど起こり得ない反応だと言っていい。

 一方的な暴力を加えるだけの父親に対する恐怖心によって屈折された自我のうちに、毅然と(?)抗弁するエネルギーなど生まれようがないのである。

 たとえそれが、90年前に作られた映画だとしても、人類社会の遥か昔から存在していたDV現象を認知できないはずがない、その辺りの作り手の人間観察の脆弱さ(チャップリンの鋭利な観察眼と比較すれば瞭然)が、最後まで私の中で引っかかりを持っていたのは事実だった。

 未成熟な自我形成を常態化していた少女が、阿片漬けの東洋人の心の中で、無垢な「白い花」として把握されていたが、それはメロドラマの「純愛性」のみを強調させる作り手の、「映画の嘘」をマキシマムに利用したあざとい基本デザインであったとしか思えないのだ。

 グロテスクなラストシークエンスに雪崩込んでいった物語の、その内側に隠し込んだ真の破壊的暴力の怖さとは、恐らく父親もそうであったように、「愛くるしい少女」を私物化する男の独占感情が、性的感情とリンクする危うさをも内包しているところにある。

 そのような事態を含む破壊的暴力の怖さこそ、本作から最も感じる点であった。

 だから天の邪鬼な私には、「美しい映像・詩情にあふれた無声映画の傑作」(Wikipedia)という風に定まった評価の如き、本作に対して、単にメロドラマの「純愛性」のうちに閉じられる情感的映像イメージを持ち得ないのである。

 
(人生論的映画評論/散り行く花('19) D・W・グリフィス <メロドラマの「純愛性」のうちに閉じられる情感的イメージ ―― その「人間観察力」の脆弱さ>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/08/19.html