巴里の女性('23) チャールズ・チャップリン <心理描写の見事さと、ブルジョア富裕層に対する怨嗟の念>

 1  心理描写の見事さと、ブルジョア富裕層に対する怨嗟の念



 「この映画に私は出演していません。これは私の最初の喜劇ではない映画です」

 映像冒頭で、敢えてこんな字幕を入れるほど、観る者のイメージギャップを中和化しようとする「喜劇王チャップリンの、本作に対する強い思い入れを読み取りたい。

 「この作品は当時“ソフィスティケイション”なる称賛の言葉を生んだ。チャップリンがいかに映画作家として第一級の芸術家たるかを示し、もしも彼が悲劇映画作家またはリアリズム映画作家としての道を進んでいたら、またチャップリンの世界はさらに違った面で世界的偉大さを見せたにちがいない」(解説:淀川長治ポニーキャニオン・ビデオジャケット『巴里の女性 サニーサイド』より)

 私はこんな「大絶賛」の評価を本作に付与できないが、それでも昔、単に暇つぶしの感覚で、全く予備知識なしに、この映画を初めて観たときに受けた印象はあまりに強烈だった。

 一つは、「喜劇王チャップリンがメロドラマを作ったこと。

 そしてもう一つは、この「喜劇王」が意外なほど良質な作品を作ったこと。

 しかし、本稿を書くに当って、客観的に本作を丁寧に観直す中で、最初の印象を裏付ける根拠を確認できたと同時に、新たな感懐を強く抱いた。

 最初の印象を裏付ける根拠とは、登場人物やストーリーが類型的ながら、4人の主要キャストの心理描写が想像以上に表現できていたことに尽きるだろう。

 言わずもがなのことだが、私たちは今、この映画を観るとき、本作が1919年に製作されたメロドラマであることを認識せねばならない。

 さすがに、21世紀の現在の視座で本作を評価すれば、あまりに類型的なメロドラマのカテゴリーに収斂される表現に、殆ど耐えられないほどのベタ性を感じるが、それは既に本作が作られた当時のアメリカで、この類のメロドラマの基本形が構築されたことを無視する傲慢さであると言っていい。

 文学世界でのメロドラマではなく、音声のない映像でメロドラマを構築することの困難さは、「散りゆく花」(1919年製作)を世に出した、D・W・グリフィスの一部の作品の例はあれども、推して知るべしだろう。

 まして、そこに映像と僅かな字幕だけで、心理描写を表現するのは至難であった。

 「喜劇王チャップリンは、このアポリアに挑戦したのである。

 そして、もう一点。

 本作を観直してみて新たな感懐を得たものは、幼少時より貧民院の生活を余儀なくされてきた、赤貧洗うが如しの自己史をなぞるかのように、一貫して生活の惨状を喜劇化してきたチャップリンの、ブルジョア富裕層に対する怨嗟の念である。

 時恰もロシア革命の只中にあり、レーニンの命令によって、ロシア皇帝ニコライ2世一家ばかりか、皇帝の親族・従者の全員が惨殺された事件に象徴される時代の激流が渦を巻いていた。

 ピエールに象徴される有閑階級が、連日連夜、乱痴気騒ぎを繰り返し、男女の恋愛をもゲームと考えて時間を蕩尽するその無秩序性。

 その無秩序の頽廃のさまが、80分余りの映画の中で執拗に強調されるのだ。

 本作の二人の若い男女よりも、富裕を極めたピエールのブルジョア性をフォローする尖った描写が目立ったが故に、明らかにサイレント映画のフィルムのうちに、「全身プロレタリアート」を生きてきたチャップリンの、「ソフィスティケーション」とはおよそ無縁な、ブルジョア富裕層に対する怨嗟の見えない叫びを拾い上げてしまったのである。

 興味深いのは、異様とも思える「余裕」を表現する、このピエールの人格の本質辺りにまで肉薄する心理描写が、実に丁寧に描き込まれていたことである。

 それは、俳優の演技力も凄味も相俟って、主役二人の男女をしばしば食ってしまう程だった。

 以下、以上の二点をリンクさせながら言及していく。



 2  悲劇、和解、そして怨嗟を鏤刻(るこく)する決定的構図



 まず、心理描写の見事さ。

 これは、主役二人の男女の恋の縺れ合いというメロドラマ特有のテーマのうちに収斂されるだろう。

 中でも私が関心したのは、「裏切られた恋」(実際は、ジャンの父の急死によって駆け落ちが頓挫)が原因で巴里の社交界に出たマリーが、ピエールの愛人となっている一コマ。

 以下の通り。

 裕福な独身実業家のピエールの「結婚報道」の記事を読んでも、「人生って、こんなものよ」と言ってのけるほど、変貌した印象のマリーは、そのピエールの前で平気で煙草を吸う女だが、同性の遊び友達が帰り、部屋で一人になたとき、その記事を読みショックを隠せないのだ。

 その後、その記事を気にするピエールの前で、小さく嗚咽を結んだのである。

 連日のように乱痴気騒ぎを繰り返す、ブルジョワの社交世界に完全に同化できない、マリーのナイーブさを映し出すシーンのうちに、性格の根っこにあるものが簡単に変わらない心理描写が強調されることで、画家のジャン・ミレとの復縁への伏線の文脈を構成化したのである。

 こんな描写もあった。

 マリーは贅沢三昧の生活を否定する思いをピエールに話すが、彼女の心理を読み切ったピエールは、その言葉を一笑に付すのである。

 そんなピエールの俯瞰するような視線に怒ったマリーが、思わずネックレスを窓外に捨て、それをホームレスが拾って持ち去って行ったとき、彼女は慌ててホームレスを追い駆け、何某かの金と引き替えに取り戻したのだ。

 部屋の中でそれを俯瞰し、終始、腹を抱えて哄笑するピエール。

 人生をゲーム化して生きているような彼には、一向にミストレスになり切れない、そんなマリーの初心さやナイーブさに、擦れっ枯らしの女が多い社交世界の中で希少価値を感じているのだろう。

 このピエールの心理描写の見事さ。

 それは、ブルジョア富裕層に対する怨嗟の念を持つだろう、「喜劇王チャップリンがイメージするブルジョアの、そのシンボリックな感覚的把握のように思えるのである。

 また、父を喪って、息子思いの母と二人暮らしの貧しいジャンに対する愛情を、マリーが告白したときのシークエンスにおいても、ピエールの反応には変化がなかった。

 「君は彼を愛しているのか?」
 「そうよ」

 当のピエールは、余裕の笑みを漏らすばかり。

 彼は、マリーがこの生活から離れられないと信じているのだ。

 ここでも、一貫して大人の振舞いをしながら、出自、育ちが異なる者たちへの視線が常に俯瞰的で、それすらも蕩尽の対象にしてしまう生き方を身体化するピエールの心理描写が見事だった。

 若い二人のナイーブな関係を際立たせるシーンも、強く印象に残るものだった。

 フランスのとある小さな村。

 「マリー・サン・クレール。不幸な家庭の犠牲になった運命の女」という字幕によって開かれた映画は、若い男女の恋の縺れ合いを描き出していくが、齟齬(そご)によって頓挫した恋が、「運命の悪戯」(?)で再会を果たした後、画家のジャンがマリーの肖像画を描くシークエンスを用意した。

 華やかなガウンを着て、肖像画を求めるマリーの要望がジャンに拒まれ、結局、彼女は銀色のドレスでモデルになった。
 
 「仕上げになるまで絵を見ない約束だよ」と言われていたにも関わらず、マリーは完成した絵を覗き見てしまう。

 しかし、そこで描かれていた肖像は、地味な生活に甘んじていた昔のマリーの姿だった。

 「なぜ、昔を思い出させるの?」とマリー。
 「あの頃の方が、君を知っていた」とジャン。

 貧しい生活を継続させているジャンは、明瞭に「マリーの現在」を否定したのである。

 その直後、マリーへの愛の告白をするジャン。

 その事実を知って、ジャンの母は衝撃を受ける。

 なお、悩むマリー。

 そんな渦中で、ジャンと母は言い争いをした。

 「私は構わないけど、まともな女とは思えないんだよ」と母。
 「だから、結婚しないって言ったでしょ!」と息子。

 母子の激しい対立の後、嗚咽する母を慰める息子。

 大抵、母の嗚咽を目の当たりにしたら、それを吸収するに足る分だけ慰撫するものだ。

 しかし、そこはやはりメロドラマ。

 マリーは、その話を部屋の外で聞いてしまったのである。

 ショックを受ける女。

 だから、その場から急ぎ早に立ち去った。

 マリーを追うジャン。

 徒労に終わったのである。

 本人から詳細な事情を聞くこともしないで立ち去った女は、どこまでもナイーブなのだ。

 更に2点目の、「ブルジョア富裕層に対する怨嗟の念」について。

 これは既に、ピエールの心理描写への言及の中で、縷々(るる)拾い上げたエピソードのうちに説明されているところである。

 敢えて、もう一つのエピソードを紹介することで足りるだろう。

 ジョンの思いを誤解したマリーは、再び華やかな社交世界に戻って行った。

 マリーの誤解を解くために、ジョンは巴里の社交の前線に乗り込んでいく。

 彼は給仕を介して、自分の思いを書いたメモを渡した。

 「最後にもう一度君に会いたい」

 そのメモを受け取ったマリーは、殆ど反応を示さなかった。

 ピエールはマリーのメモを読み、ジャンをテーブルに招待しようとしたが、ピエールがメモを持っているのを知ったジャンは激昂し、社交の前線の只中で拳銃自殺を遂げてしまったのである。

 愛する息子の自殺を知った彼の母は、復讐を果たすためにマリーの元に向かった。

 その手に握られた拳銃で彼女を殺害するつもりだった。

 ところが、マリーはジャンのアトリエで、遺体に縋って号泣していた。

 それを視認したジャンの母は、もう復讐の感情を阻喪されてしまった。
 
 そしてラストシーン。

 何年か後、マリーとジャンの母は孤児院を運営し、第二の人生を歩んでいた。

 二人は完全に和解したのである。

 その辺りのシークエンスは如何にもメロドラマ的な軟着点を想起させるが、本作には、興味深いもう一つのラストシーンが用意されていたのである。

 相変わらず、ブルジョア富裕層の生活をエンジョイしているピエール。

 その彼が乗っている乗用車と、マリーの乗った馬車が田舎道で擦れ違い、遠ざかって行った。

 まさにこの構図こそ、チャップリンが最後に用意した決定的な絵柄であったに違いない。

 そこにこそ、「全身プロレタリアート」を生きてきたチャップリンの、「ブルジョア富裕層に対する怨嗟の念」が読み取れるであろう。

 悲劇、和解、そして怨嗟を鏤刻(るこく)する決定的構図の提示によって、本作は閉じていったのである。


(人生論的映画評論/巴里の女性('23) チャールズ・チャップリン <心理描写の見事さと、ブルジョア富裕層に対する怨嗟の念>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/08/23.html