スラムドッグ$ミリオネア('08)  ダニー・ボイル <「長い旅の後の希望」、或いは、「夢と決意を捨てないスラムドッグの、〈状況突破〉の純愛譚」>

  ムンバイの人口の過半が居住していると言われる、「スラム」という「生存のリアリズム」と、そこからの 〈状況突破〉の極点にある「クイズ$ミリオネア」という、「夢幻のロマンチシズム」の世界の対比によって、人間社会で分娩される極端な要素を包括してしまう、「現代インド」に象徴されるムンバイの求心力の凄みを表現し、そこで呼吸する人々のエネルギッシュな息遣いをビビッドに切り取っていく。

 切り取られたジャマールの青春の疾走は、己が〈希望〉を捨てることなく、力強く、堂々と、且つ、「氾濫する世俗の進化のトラップ」に全く振れることなく、一途に〈生〉を繋いでいくのだ。

 男たちの所有物でしかない不幸を生きるラティカは、所有物の記号として、彼女の美しい顔が傷つけられるが、一人、ジャマールだけは、ラティカの全人格を愛し続ける強靭な「援助感情」(私は、この感情が「愛」の最も基幹的な構成要件であると考えている)のうちに、一切を自己投入するのである。

 最後に、2千万のインド・ルピー(1ルピー=約2.4円だから、約5千万円)の賞金を獲得しても、ジャマールの視界にはラティカの存在しか捕捉されないのだ。
 
 「夢幻のロマンチシズム」としての、「クイズ$ミリオネア」に象徴される即物性の極点は、「スラム」という「生存のリアリズム」からの〈状況突破〉の極上のファンタジーだったのである。

 更に言えば、一切の事象を「運命」という言葉のうちに収斂する物語の心象風景には、インド人にとっては取るに足らない「日常性」、或いは、「非日常」の様態を、極端な映像情報に変換させねば済まないように印象付ける、異文化クロスのインパクトの初頭効果(第一印象効果)に搦め捕られた、好奇心丸出しの欧米人の情感的メンタリティが横臥(おうが)している。

 それが、本作に対する私の基本的な読み方である。

 ここで、ジャマールの疾走を「運命」という言葉を読み替えれば、一切の不孝の原因を、単に外部要因に還元させず、自分の確信的選択にベストを尽くすという、「選択理論心理学」のモデルとも言えるだろう。

 青年の疾走を、青年自身の確信的な選択的行動が支え切っていたのである。

 それは、青年の「純愛道」を、巧みな物語構成によって、これ以上ない躍動感溢れた、予定調和のファンタジーのうちに自己完結したということである。

 従って、とかく評判の悪いラストシーンの意味は、過剰なまでにエモーショナルな映像総体の、その炸裂する自給熱量の包括的結晶点であると同時に、物語の寓話性の帰結点として把握すべきなのだ。


(人生論的映画評論/スラムドッグ$ミリオネア('08)  ダニー・ボイル <「長い旅の後の希望」、或いは、「夢と決意を捨てないスラムドッグの、〈状況突破〉の純愛譚」>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2011/02/08.html