グエムル - 漢江の怪物('06) ポン・ジュノ <アンチの精神の激しい鼓動が生み出したもの>

 2000年2月9日。

 駐韓米軍第8部隊・ヨンサン基地内霊安室

 アメリカの一人の老科学者が、韓国の若い科学者に「ホルムアルデヒド(注5)の瓶に汚れが付いているので、一滴残らず捨ててカラにしたまえ」と命じた。規則違反を理由に躊躇(ためら)う部下に、老科学者が放った一言。

 「下水溝に流してしまえばいい」
 「そんなことをしたら、毒薬が漢江に流れます」
 「その通り。だから漢江に捨てるのだ」
 「しかし、これはただの毒薬ではなく…」
 「漢江という川はとてつもなく大きい。心を広く持とう。これは命令だ。早く捨ててしまいなさい」

 それが、全ての始まりだった。
 そして、この二人の会話の中に窺えるのは、「アメリカの言うことには、決して逆らえない」という権力関係の紛う方ない形成の現実であった。


(注5)合板用の接着剤などに使用され、相当の刺激臭を持ち、健康上の障害をもたらす毒性の強い有機化合物である。その約40パーセント水溶液であるホルマリンは、代表的な消毒剤として有名。


 2002年6月の漢江。

 そこで二人の釣り人は、足が何本あるか特定できない奇妙な水生生物の稚魚を発見した。

 2006年10月。

 漢江大橋から身投げを図ろうとする会社社長がいた。男が覗いた川の中に、「大きくて黒いもの」が見えたが、男は部下の社員の制止を振り切って、そこから身を投げたのである。或いは、この身投げ男が、「大きくて黒いもの」の最初の「餌」になったと思わせる、布石を打つ描写であったのかも知れない。

 映像は一転して、居眠りをし続ける茶髪の男が、川べりの雑貨店で留守番をする描写を映し出す。

 茶髪の男の名は、カンドゥ。

 そこに一人の少年の手がスーと伸びてくるが、盗みを図る少年の試みは、彼の兄に制止された。まもなく、カンドゥは父親のヒボンに起こされることになったが、いつものことで驚く気配を見せない。

 「授業参観に叔父さんが来たのは、私だけ」

 一人娘のヒョンソに、文句を言われるカンドゥ。携帯で知らせようにも、あまりの古さから娘は使う気になれないのだ。

 父と娘は店に戻って来た。

 新しい携帯を買ってあげるため、父は娘に内緒で貯めた金を渡そうとするが、「100ウォン(注6)ばかりじゃ何も買えない」と娘に相手にされない。二人はテレビをつけて、国体のアーチェリー競技に参加している、カンドゥの妹のナムジャのプレーに熱中していた。


(注6)日本円に換算すると、1ウォンは0.1円位だが、映像制作時辺りから急激なウォン高が起こって、2009年6月現在、1ウォン=0.075円ほどになっている。100ウォンだと、2006年6月時点で、せいぜい8円位だろう。


 まもなく、河川敷にイカと缶ビールを届けに行ったカンドゥは、そこで信じ難き光景を眼にすることになった。

 漢江の怪物(グエムル)が突然出現して、長閑(のどか)に河川敷に憩っていた人々を襲い、暴走するのである。

 カンドゥは一人の勇敢なアメリカ人と共に、グエムルに無謀な戦いを挑むが、怪物の餌になったのはアメリカ青年だった。この辺りに、「在日米軍」に集約される「アメリカ」と、一般(?)のアメリカ人を分けるという作り手の配慮が窺える。この作り手は、アメリカ映画を含むこの国の文化の影響を受けた、「アンチ」の映像作家であるようにも見える。 

 ともあれ、騒ぎで河川敷に飛び出した娘のヒョンソはグエムルに拉致され、娘を助けようと慌てて川に飛び込むカンドゥの努力も、無力さを晒すだけ。

 まもなく、「合同慰霊祭」が、多くの人々の号泣の中で執り行われた。既に遺体なき写真だけを残すヒョンソの下に、叔母のナムジュと叔父のナミルの姿が現れた。

 「ヒョンソ、お前のお陰で、家族が全員そろったよ」と、父のヒボン。

 カンドゥの甲斐性のない生活によって、バラバラだった一家が、ヒョンソの死によって物理的な共存を一時(いっとき)果たしたのである。

 ここからの展開は、家族による怪物退治の話と、在韓米軍経由で韓国政府がウイルス感染説を流して、感染者と目されるカンドゥの拘束、脱走、更に、携帯の連絡によって生きている事実が判然としたことで、「ヒョンソ救出」への家族の結束のエピソードが繋がっていくが、あくまで家族の行動は「ヒョンソ救出」にのみ重点が置かれているから、前者の話は後者の副産物でしかない。

 しかし、ライフルとアーチェリーで武装して、漢江の下水溝の中を闇雲に探す家族の非合理的な行動は、徒労に終わった。

 ここで映像は、冒頭のシーンに出て来た、年端もいかない兄弟の行動を追っていく。弟の盗みを戒めた兄は、ここでも泥棒を止められない弟に、「泥棒」と「荒らし」の違いを説明していた。

 「これは泥棒じゃない。俺たちは売店荒らしをしているんだ。畑を荒らすのと同じ。とにかく『荒らし』はひもじい人間の特権だ」

 そんな兄弟の前に怪物が現れて、兄は餌食にされ、弟は餌の隠し場所の側溝に投げ入れられた。まもなく、そこにいたヒョンソの男勝りの英雄的行動によって、少年は守られていくことになる。

 一方、脱力感に疲弊した家族がそこにいた。

 次の行動に移れないまま、相も変わらず、兄のカンドゥを非難するだけのナミルやナムジュに対して、父のヒボンは長男を庇う説諭を開いていく。

 「お前たちの眼には、カンドゥがマヌケに見えるか?知らないだろうが、カンドゥは子供の頃、頭が良かった。2歳の時だったか、近所の雑貨店に座っていると、通りがかりの人によく道を聞かれた。賢そうな顔をしてたからだろう。

 ・・・知っていると思うが、カンドゥが子供の頃、俺はダメな父親で、外をほっつき歩いていた。母親を知らずに育ったカンドゥは、いつも腹ペコだったよ。だから人の畑をあちこち荒らしちゃあ、有機野菜で飢えをのしのいだ。畑の主人にボコボコにされたこともある。そんなこんなで、育ち盛りの頃にタンパク質不足だったせいか、今でも暇さえあれば病気のニワトリみたいに居眠りばかりだ。ここも(頭を指して)イカれちまったらしい・・・

 お前たちはあの臭いを嗅いだことがあるか?子を喪った親の気持ちが分るかという意味だ。親の心が腐ってしまうと、その臭いは遥か遠くまで広がる。お前たち2人にこれだけは言っておきたい。カンドゥにできるだけ優しくしてやれ。いちいち、けなすんじゃない」

 そこに存分な感情を込めながらも、静かに諭すような父親の長広舌が閉じられた。

 しかし、最初の内は説得力の欠ける父親の話を聞いていた、肝心の二男と長女は疲労のため居眠りし、そして当の張本人である長男のカンドゥに至っては、自分を庇う父親の話を反古にするかのように、最初から就眠の世界に捕捉されていた。この時点で家族の結束はなお、「ヒョンソ救出」という一点のみで繋がれていただけだった。

 父の話が閉じた後、突然出現したグエムルとの生死を賭けた戦いが開かれ、カンドゥから受け取ったライフルを手に、父のヒボンは突進してくる怪物に対峙するが、一撃で斃されてしまった。

 弾が一発充填してあるというカンドゥの計算の致命的ミスは、遂に父親まで奪われてしまうことになったのである。

 「米国とWHOは、保菌者2人が逃亡中である点と、謎の生物の捕獲に失敗した点を挙げ、韓国に解決を任せられないとして介入することにしました」

 まもなく、テレビで米軍主体の捕獲作戦が開かれていった。米軍は漢江にエージェント・イエローという最新化学兵器を、ウイルスの蔓延する地域に散布する計画を発表した。

 ヒョンソの居場所が特定できた兄妹の、果敢なヒョンソ救出作戦が再開された。

 その間、様々なエピソードが描写化されるが、その主調音はウイルスの検出がデマゴギーであり、彼らの関心が最新化学兵器の実験にしかないこと、その行動に邪魔である3人の兄妹を捕捉すること以外ではなかった。3人は自国の主権を侵す米軍と、その傀儡(かいらい)である韓国国家と、そして何より、「ヒョンソ救出」の前に立ち塞がるグエムルとの、生死を賭けた戦いを抜け切っていかねばならなかった。

 米軍の散布する黄色い化学物質でも死なない怪物の体内から、少年を抱いたヒョンソを救い出したカンドゥは、弟妹との協力によって怪物を斃したが、ヒョンソの生命は既に途絶えていた。

 鉄パイプによって怪物の息の根を止めた、最後の命懸けの兄の奮闘を、遠くで見守る弟妹がそこにいた。

 ラストシーン。

 居眠りすることなく、雑貨店を守る一人の男。
 髪を本来の黒に戻した、カンドゥである。彼は夜の漢江からの不気味な気配を感じ取って、傍らのライフルに手をかけたが、怪物の姿は見えなかった。

 部屋の中央に堂々と寝ているのは、ヒョンソが救い出したあの少年だった。ご飯を炊き終わって、少年を起こしたカンドゥは、もう昔の「マヌケ」な男ではなかったのだ。

 食事の前の、テレビのニュース。

 「アメリカの調査委員会は、ウイルス事件の結果を発表しました。・・・ウイルスは発見されず、今回のような事態を招いたのは、誤った情報が原因と考えられます・・・」

 テレビを消したカンドゥは、もう事件のニュースには全く関心を寄せなくなっていた。彼はウイルスが存在しなかったことを知っているが、その事実にも関心が失せていたのだ。今は、ヒョンソが命を賭けて守り抜いたセジュ少年を、真の父子のように育てていくこと。それだけにしか関心を持てないカンドゥが、映像の中央に凛とした輝きを放っていた。


(人生論的映画評論/グエムル - 漢江の怪物('06) ポン・ジュノ <アンチの精神の激しい鼓動が生み出したもの>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2009/07/06.html