終電車('80) フランソワ・トリュフォー <トリュフォーの、トリュフォーによる、ドヌーヴのための映画>

 この映画のエッセンスは、ラストシーンの劇中劇に集約されるだろう。

 以下、その際の男と女の会話を再現してみる。

 「あなたを忘れたかったの。あなたの自尊心が私を遠ざけたの」
 「あなたは新しい嘘を考えて、ここに来る」
 「嘘?何のため?あの人は死んだわ」
 「あなたには仕事がある」
 「違うわ。もう仕事には興味はないわ。何もかも捨てたわ。私は、唯一つだけを願っているの。あなたをここから出すことよ。私たちはやり直せるわ」
 「いや。やり直すことなんか何もない。僕らに真実は何もなかった。愛の演技はしたが、愛したことはない。頭の中の愛だけだった。僕自身それを信じたから、あなたも信じた」
 「あなたのことを考えない日は、一日もなかったわ」
 「僕だって。だが、それも次第に遠くなって、今ではあなたの苗字が思い出せない。名前も忘れたよ。あなたの顔が、すっかりぼやけていくようだ。帰ってくれ。帰ってくれ!」
 「聞いて頂戴、お願い。二人がいれば愛せるわ。憎み合いもよ。私はあなたを愛すわ。あなたを思って、胸が高鳴ることが私の命よ・・・さようなら」

 女は負傷した男の病院に駆けつけて、自分たちの愛を取り戻そうと、その思いを吐露していく。

 「もう遅い」と男は拒む。

 女はなお未練を残しつつ、男の病室を去っていく。

 ここで劇中劇が閉じられ、カーテンコールの大団円に流れ込んでいった。

 長い間、待ち望んで駆けつけたパリ市民の熱狂が、モンマルトル劇場で炸裂する。

 ここでルカが登場するに及んで、劇場の観客たちに響(どよめ)きが起こり、「ルカの生還」を祝福し、歓声が勢いよく劈(つんざ)いた。

 観る者は、ここで初めて、この劇中劇を演出したのがルカであることを知る。

 予想もしない展開の中で閉じていく映像の余韻は大きく、両サイドに居並ぶ二人の男(ルカとベルナール)の手を結ぶ中央の女、即ち、マリオンの満面の笑みをアイリスショットの技法の内に映し出すのだ。

 このような劇中劇を作り上げ、成功させたルカには、マリオンとベルナールの関係の本質を見抜いていたのである。

 既に映像後半で、劇場の地下室を捜索しに来たゲシュタポの手から、そこに隠れ住んで、「消えた女」という戯曲の演出をサポートするルカを守ろうと、必死に行動する男と女が描かれていた。

 言うまでもなく、女の名は、ルカの妻のマリオン。

 そして男の名は、この劇の相手役に抜擢された新進俳優のベルナール。

 そのときベルナールは、地下室に隠れ住ルカと初めて顔を合わせるが、レジスタンス活動に挺身しているベルナールは、当然の如く、ルカの救出劇に一役買った。

 そのベルナールに、ルカが放った一言。

 「私の妻は奇麗だろう?あんたに一つ尋ねたい。妻はあんたを愛しているが、あんたはどうだ?」

 この時点で、ルカは既に、妻とベルナールの関係の本質を見抜いていたのである。

 観る者は、このルカの言葉に驚かされるだろう。

 なぜなら、ベルナールに思いを寄せるマリオンの心情の伏線となり得る、1人称的なナレーションを含む一切の描写を、映像は全く拾い上げていなかったからだ。

 ともあれ、このルカの指摘に何も反応しないベルナールの沈黙によって、この関係がルカの指摘通りであることを暗黙裡に検証するに至る。

 そして映像は、占領末期のナチスへのレジスタンスに身を投げ入れていくベルナールが、別離の際(きわ)になって、初めてマリオンと愛を確かめ合うシーンが挿入された。

 ベルナールが別れていくときの、二人の会話を再現してみよう。

 「あんたは怖かった。僕を見る目が冷酷でさえあった」
 「冷酷?」
 「そう。人を裁くように」
 「全く反対だわ。私があなたに心を乱されていたのよ。それが顔に出はしないかと思い、頑なになって、あなたの憎しみを買ったのよ」
 「嘘だ。憎んだことは一度もない」
 「私の中に、女は二人いない」
 「二人の女がいる。夫を愛さぬ妻と・・・」
 「違うわ!」

 この会話の直後、二人は求め合うように愛し合う。

 そして、この男女の睦みの後に開かれた映像は、占領末期の混乱の中で、パリ市民が騒然とするさま。

 そこにルカとマリオンがいることで、観る者は夫婦の関係が延長されていることを知らされる。

 その後、前述した劇中劇が開かれるに及ぶのだ。

 物語としての巧みな映像構成に脱帽するところである。


(人生論的映画評論/終電車('80) フランソワ・トリュフォートリュフォーの、トリュフォーによる、ドヌーヴのための映画>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/06/80.html