ウィスキー('04)  フアン・パブロ・レベージャ <偽夫婦」の絶対記号が剥がれるとき>

 1  オフビート感漂う人間ドラマの挑発的な問題提示



 南米で二番目に面積が小さい共和国である、ウルグアイのとある町で、父親から譲り受けた零細工場を経営している男がいる。

 かなりの中古車で通勤して来るこの男を待って、一人の中年女性が工場入り口のシャッターの前で立っている。

 まだ闇に包まれた黎明の町に出発するために、灯りの点灯していない、いつものカフェで軽い朝食を済ました後、工場に向かう男の車が到着する。

 男は件の中年女性と、「おはよう」という挨拶を交わすや、重いシャッターを一気に開け、彼女を工場内に通した後、再びシャッターを閉める。

 機械の電源を入れ、工場内の灯りを点ける。

 件の中年女性が男にお茶を入れる頃に、二人の若い女性従業員がタイムカードを押して出勤して来る。

 「失礼します」と中年女性。
 「入りなさい」と男。

 お茶をテーブルに置いた女に、「すまんな」と一言。

 その間、事務的な会話を一つ挟んだだけの二人。

 こうして、工場の機械が作動し、いつものように女性従業員の仕事が開かれていく。

 これが、この零細工場の一日のルーティンワークの風景の一端である。

 そして、このような日常性に特段の違和感を持つことなく、淡々と、日々の呼吸を繋ぐ女と男がいる。

 女の名はマルタ。

 中小の靴下製造工場に勤める、未婚の中年女性。

 男の名はハコボ。

 この工場の経営者である。

 因みに、「反復」→「継続」→「馴致」→「安定」という循環を持つサイクルを、私は「日常性のサイクル」と呼んでいる。

 殆ど、この「安定」のステージまで日常性を固めていたこの二人に、突然、非日常の事態が侵入してきた。

 永く介護していたハコボの母親が逝去して間もないが、この母の墓石の建立式に、ハコボの弟であるエルマンが、ポルトガル語圏の隣国であるブラジルから訪ねて来ることになったのである。

 同様の靴下製造工場を経営していて、事業は成功しているらしい。

 そんなエルマンと20年ぶりに会うことになったハコボは、母親を永く介護していた関係からか、中年の域に入っても未婚の状態だった。

 家族を持つ弟への虚栄心が手伝ったのか、ハコボはマルタに「偽夫婦」の役割を演じてもらうことになった。

 全ては、ここから開かれていく。

 物語の登場人物は、以上の3人。

 殆ど台詞のない90分強の、オフビート感漂う人間ドラマの中枢は、この3人の「三角関係」的な交叉と、そこで生まれた微妙な確執を描いていくもの。

 以下、惜しくも、2006年に自殺した、フアン・パブロ・レベージャ監督のインタビューがあるので、それを引用する。

 「私たちは、観客としても全部、答えを与えられてしまった映画は、好きではないんですね。私どもはあくまでも火種をみなさんに差し上げる。火種から炎を起こすか、または火種をそのままにして火を消してしまうかは見ている側に委ねるという気持ちで作りました。ですから、これが描きたかったんだ、こう理解してくださいという対象のものはございません」(東京国際映画祭JANJAN 「ウィスキー」の映画監督は語る)

 同じインタビューで「あまり、観客にいろいろな情報を与えすぎるタイプの映画は2人とも嫌いです」と言い切る監督の、真骨頂とも言える作品が、「コメディ」というカテゴリーに入れられた、この「ウィスキー」であった。

 本作の3人の主要登場人物の心理の振れ方を、観る者に一切委ねた作り手の、些か挑発的な問題提示に対して、「人生論的映画評論」の視座によって、私の主観的な「解釈」を、殆ど独断的に書き連ねていきたい。


(人生論的映画評論/ウィスキー('04)  フアン・パブロ・レベージャ <偽夫婦」の絶対記号が剥がれるとき>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2011/02/04.html