大通りの店('65) ヤン・カダール エルマール・クロス <「服従と相対的秩序」から「強制と絶対的秩序」へ ―― 「風景の変容」の物語構成>

 映像の冒頭は、大通りを長閑に歩く人々の平和の賑わいを映し出すシークエンス。

 軽快なBGMに乗って、コメディの筆致で進行する映像の印象は、眩い陽光の下で呼吸を繋ぐ人々の日常性が切り取られていて、本作の風景の変容を想像させる何ものもなく、観る者に哄笑を約束させるイメージを残していた。

 コメディの筆致は、老婆からもらった亡夫の黒いスーツと、山高帽子を被る主人公の絵柄の内に垣間見えていた。
 
 その絵柄だけを見れば、ちょび髭なしのチャップリンを模したかのような印象を与える、件の主人公の名はトーノ・プルトコ。

 貧乏大工である。

 トーノは、ドイツに加担してユダヤ人の財産没収を遂行する義兄のコルコツキー(トーノの妻エベリーナの、実姉ローザの夫)に、「これからは仲良く支え合っていこう」などと言われて、大通りに面する、ユダヤ人老婆の経営している店を管理する権利を与えられた。

 「君がファシスト党に加わらないから、私は出世しないのだ」

 ここで言う「ファシスト党」とは、スロヴァキア・ファシスト党のこと。

 ともあれ、そんな厭味を言う義兄に恨みを持つが故に、トーノ本人の歓喜がストレートに表れなかったが、明らかに、妻エベリーナのはち切れんばかりの歓心を買って、その夜は前祝いの宴を催すことになった。。

 しかし、ラウトマンという名の老婆がいるだけの「大通りの店」に出向いたトーノは、痛風を病み、近所のユダヤ人コミュニティの世話を受けている老婆の店が、満足に商売をしている気配がない事実を知り、悄然とするばかり。

 「バア様は、戦争中だってことを知らないんだ」

 おまけにトーノは、ユダヤ人コミュニティの組織のリーダー(擁護者)から、そんな情報を聞かされる始末。

 更に、安息日には決して店を開かない老婆ラウトマン。

 「何もかも店を奇麗にします」

 トーノは、ラウトマンにそう言うしかなかった。

 彼としては、自分の権利が担保されている店を繁盛させて、大工稼業の身入りの少なさを補いたいのだ。

 「あなたの人柄を見込んで、報酬をお支払いします」

 これは、ユダヤ人人コミュニティの出納係(ラビ)に言われた言葉。

 根っからの善良さを見込まれたトーノは、まもなく出納係から現金を受け取って帰宅した。

 妻に自慢する夫。

 トーノも、常日頃口喧しいエベリーナに対する「体面」だけは、どうにか保たれて安堵するのである。

 しかし彼は、ユダヤ人人コミュニティからの「報酬」の事実は、最後まで妻に秘匿するのだ。

 それが、彼の悲劇を加速する因子になっていくのだが、当然の如く、本人の意識には時代の尖った近未来の恐怖のイメージが捕捉されることはなかった。



 2  「アーリア化条例」という、風景の劇的変容が襲いかかってきて



 「恐ろしいことが起こりそうだ」
 「恐ろしいことって?」
 「昨夜、駅で見たんだよ。親衛隊の大群だ。ユダヤ人を連れに来た」
 「ただの噂だろ」

 この会話から、物語の風景の変容が劇的に開かれていく。

 報告者は、ユダヤ人コミュニティの組織の外部リーダー。

 報告を聞いても、簡単に信じようとしない男はトーノ。

 しかし、この報告は現実のものとなっていく。

 スロヴァキア・ファシスト党が遂行する「アーリア化条例」という、ユダヤ人の財産を接収する法の制定により、トーノの知り合いのユダヤ人たちが次々に召喚されていった。

 「どうしてこんなことが起こっているのか」

 自分の力でコントロールし得ない異常な現実の出来に、トーノの心理はダッチロールするばかり。

 首にステッカーを掛けられ、組織のリーダーは逮捕され、連行されていく。

 その結果、ユダヤ人人コミュニティからの「報酬」の停止という事態を、彼は受容するしかなかった。

 その苛立ちを抱えて帰宅した彼に、彼の妻は、「店の売上金」を持って来なかった不満を吐き出した。

 その時だった。

 穏健なトーノが、妻のエベリーナを繰り返し殴打したのだ。

 それも、明らかな暴力の行使だった。

 信じ難い夫の暴力に、ひたすら赦しを乞う妻の悲哀と、トーノの心情の孤立感が際立つシーンである。

 風景の変容を象徴する、あまりに痛々しい光景だった
 
 
(人生論的映画評論/大通りの店('65) ヤン・カダール エルマール・クロス <「服従と相対的秩序」から「強制と絶対的秩序」へ ―― 「風景の変容」の物語構成>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/07/65.html