黒いオルフェ('59) マルセル・カミュ <「死への誘い」という劇薬を内包する奇跡の愛の悲劇的な破綻>

 この映画の成功は、ギリシア悲劇という自己完結的な神話的宇宙と、そこに住む人々の熱気がギラギラと照り返す太陽の下で弾ける、カーニバルという自己完結的な祭事が融合することで、一定の芸術表現の高みにまで映像を構築したことにある。

 この両者を繋ぐキーワードは、〈生〉、〈性〉〉の賛美と表裏一体の関係にある「死への誘い」(死の受容)であると言っていい。

 つまり、こういうことだ。

 自然現象の寓意、神々の物語や英雄伝説に象徴される、様々に理不尽で不条理なる「死への誘い」を集合させた物語であるギリシア悲劇と、カーニバルが包含する「原始性」、「眩暈感」、「非日常」、「脱秩序」という要素が、太陽に灼かれる場所の中枢で融合することで、現代の愛の神話を蘇らせるに至ったのである。

 「太陽に灼かれる場所」とは、南半球の大都市リオデジャネイロ

 そこに住む人々が身も心も存分に炸裂させる、「リオのカーニバル」の賑わいの中で、虐げられてきた黒人同士の一つの愛が奇跡的に分娩された。

 オルフェとユリディスである。

 婚約中のオルフェが、「死神」の仮面を被った男に追われて逃げて来たユリディスを庇い、殆ど一目惚れの如き奇跡の愛が生まれるに至った。

 ユリディスを追う男は、紛れもなく「死神」(以下、「死神」)。

 既にユリディスは、この「死神」からの逃走の恐怖によってすっかり疲弊し、否が応にも、彼女の自我のうちに「死への誘い」のイメージが具象化しつつあった。

 婚約者の激しい嫉妬をかってまでも、ユリディスの命を助けようとするオルフェは、その努力虚しく彼女を天宮へと昇天させてしまったのである。

 「死神」に命を吸い取られたユリディスの亡骸を抱き上げて、オルフェは太陽に最も近い場所に連れて行こうとするが、そこで足を滑らせて崖から滑落する悲劇によって物語は閉じていった。

 オルフェを慕うリオの少年たちは、見よう見真似で覚えた彼の作った音楽を、彼のギターで弾き、歌い始めたのである。

 その少年たちの拙い調べに乗って、眩い太陽の下、ユリディスの生まれ変わりのような少女が一人、軽快に踊り繋いでいた。

 悲劇によって閉じる映像は、新しい時代を担う少年少女たちの生命の力動感をフィルムに刻むことで、そこに小さくも、未来に思いを託す予定調和のエピソードをメッセージ化したのである。

 元々、アフリカ系の黒人奴隷が持ち込んだ「全身プロレタリアート」を象徴し、カーニバルで炸裂する激しいサンバのリズムと、若手ミュージシャンたちによって創始されたばかりの、ナイロン弦ギターによるボサノバのデリケートなサウンドが弾ける、世界で有数の大カーニバルのうちに、そこに住む人々の熱狂を束ねて、今年もまた怒涛のように流れ込んでいったのだ。

 映像総体を貫流する、この乱痴気騒ぎの如き熱気が集合する「非日常」で、「脱秩序」の炸裂は、その内側で自給する「眩暈感」を沸騰させながらも、人々の熱狂を充分に吸収し、浄化した後で自己完結することで、彼らが呼吸を繋ぐ本来の日常性へと連結させていくのである。

 カーニバルの時空を揺るがす音楽と踊りと、眩く照り返す太陽の丘、そして、そこに生まれた奇跡の愛と悲劇的な破綻。

 この絶妙なアンサンブルが、色彩豊かな造形美術の芸術表現にまで高められて、南半球で作られた一つの映像が世界映画史に印象深く刻まれたのである。

 そういう、極めて情感濃度の深い映画だった。


(人生論的映画評論/黒いオルフェ('59) マルセル・カミュ <「死への誘い」という劇薬を内包する奇跡の愛の悲劇的な破綻>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/09/blog-post.html