地下水道('56) アンジェイ・ワイダ  <「深い情愛」と「強い使命感」という、「情感体系」の補完による「恐怖支配力」>

  「1944年9月末、ワルシャワ蜂起の悲劇的な最期も間近だ。旧市街及び川沿いの地区は占領され、中央区、北区、南区も敵に包囲され燃えている。

 悲劇の勇者たち ―― 

 この中隊には43名がいる。3日前までは70名を数えたのだが・・・。中隊長のザドラ中尉である。招集した部下の全責任を負っている。副官のモンドリ中尉。鉄の軍規を部下に教え込んだ。連絡係のハリンカ。家を出る時、母親に薄着はしない約束をした。女親への約束は、男も同じだろう。クラ軍曹 ―― 立派な字を書く中隊の記録係である。小隊長のコラブ ―― 毎日入浴できないのが苦の種だ。(略)

 悲劇の主人公たち。彼らの人生の末期をお目にかけよう」

 これが、映像冒頭のナレーション。

 映像前半は、圧倒的なドイツ軍の攻勢の中で追い詰められた蜂起軍が、いよいよ死を待つだけの状況下で、ワルシャワ市街の中央区への脱出を賭けて、闇と異臭の「地下水道」に潜り込んでいくまでの絶望的な戦いをリアルに描き出していく。

 映像後半は、「希望」に繋がる当てもなく、「出口」を模索せざるを得ない「地下水道」の「行軍」の現実を描き出す。

 「静かだ。濃い霧だ。汚物を掻き分けて、暗い森を散歩していく」

 女に助けられながら闇の中を進む状況下で、既に敗走戦によって、胸を撃たれて深傷を負ったコラブ小隊長のこの言葉が、散り散りになった蜂起軍の「行軍」の本質を端的に説明している。

 携帯する懐中電灯の灯りだけを頼りに、人間の咳の音ですら反響する闇のゾーンの中で、下水道の汚水に塗れながら、既に人物の特定すら困難な者たちの「行軍」はあまりに絶望的だった。

 「地下水道」の向こうにある世界への明るい展望が、全く予約されないからだ。

 そんな極限状況下で、今や殆ど「戦闘集団」の体を成していないワルシャワ蜂起の主体であるポーランド国内軍の1中隊は、這う這うの体(ほうほうのてい)で下水道に潜り込み、「行軍」の継続を維持しようとするが、元々、強固な組織基盤を構成し得ていない蜂起軍が、組織的行動を貫徹するのには無理があった。

 なぜなら、懐中電灯頼りで闇の世界を「行軍」するという行動自体が、組織基盤の維持を自壊させる危うさを持っていたからだ。

 しかも、独軍がガスを投入したいう情報が組織を混乱に陥れ、いよいよ無秩序を極めていく。

 パニックを起こすのだ。

 裸形の自我が晒され、混乱に拍車を掛ける。

 まして、マンホールから投げ込まれた独軍の手榴弾が、反響する闇のゾーンで炸裂するのだ。

 それでなくとも、全き未知のゾーンの「恐怖」に捕捉された自我が組織的な連携を果たし得ない状態を延長させてしまうとき、もうそこには、「自分の身は自分で守る」という観念しか分娩できないだろう。

 要するに、他者の安全について不感症になってしまうのである。

 普通、このような極限状況下では、真っ先に崩されていく理念系の文脈がある。

 それは、「我が身を犠牲にしてまで、『蜂起』の大義名分を貫徹しよう」という理念系の文脈である。

 実際、この40名程度の中隊では、殆どこの文脈をなぞっていた。

 ある者は発狂し、ある者は自殺し、そして、ある者は独軍の餌食にされやすい危険を顧みず、下水道の明るい出口から脱出しようと図って、独軍の機銃掃射の格好の的になってしまったのである。

 また、右手に銃を持つ泥だらけの男は、漸く出口を見つけて、そこから這い上がって来た。

 副官のモンドリ中尉である。 

 すっかり視界を閉ざされた中尉は、後方から残酷な告知を受けた。

 「手を上げろ」

 一人のドイツ兵が待っていたのだ。

 映像は、カメラをゆっくり廻していく。

 そこで捕捉された構図は、このモンドリ中尉の残酷な結末が予約されたものであることを裏付ける、蜂起軍の生き残りの者たちの捕虜の風景だった。

 彼は思わず泣き崩れた。

 映像の残酷が極まった瞬間である。

 「恐怖」を超えて辿り着いた世界こそ、本当の「恐怖」だったのだ。

 「恐怖を支配する力」 ―― 私はこれを「胆力」と呼んでいる。

 しかし、この「胆力」には当然限界がある。

 「見えない敵」との絶望的な戦いを延長していくプロセスは、同時に自分の拠って立つ精神基盤を削り取っていく、「もう一つの内なる恐怖」との戦いが分娩されるのである。

 人間はそういうとき、大抵「もうどうなってもいい」というようなネガティブな感情を生みやすいのだ。

 生存と適応の司令塔である大脳の機能が麻痺してしまうからである。

 この映画は、そのような極限状況下に置かれた者たちの現実の様態を余すことなく描き出した。

何より、「善き蜂起者は完全な人間である」というデマゴーグを否定した冷徹なリアリズムに驚かされる。

 少なくとも、その意味から言えば、本作の完成度の高さは、偶然性に依拠し過ぎた「灰とダイヤモンド」(1958年製作)と比較するとき、遥かに上質であると私は思う。

 話を戻す。

 然るに映像は、1中隊の崩壊過程の中で、特筆すべき人物像を造形した。

 前述した「真っ先に崩されていく理念系の文脈」の「不幸」をなぞらない、「強き善き蜂起者」をも描いたのである。

 デイジーとザドラ中隊長である。

 次稿では、彼らについて簡単に言及する。

 彼らはなぜ、極限状況下で理性的自我を保持し得たのか。

 それを考えたいからである。

 
 
(人生論的映画評論/地下水道('56) アンジェイ・ワイダ  <「深い情愛」と「強い使命感」という、「情感体系」の補完による「恐怖支配力」>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/07/56.html