「皆は俺をろくでなしというが、全くその通りだ」
これは、親友のシャンソンの名手である「芸術家」に、隣家に住むジュジュが捨てた言葉。
「俺は何で生きてると思う?首を吊って死にたいからだ」
これも、ジュジュの口癖だ。
その口癖を聞かされるのも、親友の「芸術家」。
そんな男が、大事件に巻き込まれていく。
2人の警官を殺害して逃げている男とは知らず、ジュジュと彼の親友の「芸術家」は、凶悪な逃亡犯によって拳銃で脅された挙句、「芸術家」の家に作られた倉庫代わりの地下室を占拠されてしまう。
まもなく2人は、逃亡犯の犯行の詳細を、行き付けのバ―仲間の話と、その一人が持って来た新聞記事で知るに至った。
件の逃亡犯の名は、バルビエ。
当初、2人は逃亡犯のバルビエを、「芸術家」の家の地下室から早く追い出そうとするが、手負いのバルビエが病気である事実を知った。
ジュジュの心境に変化が起こったのは、この事態を経由してからである。
それでなくとも、「他人のことは考えないのか」などと言って親友を責めるほどに、人の良いキャラを持つジュジュの心には、逃亡犯に対する同情心が惹起し、それが介抱の過程を通して人間的感情による「交流」が形成されたのである。
その「交流」は、ジュジュ自身の内側にアイデンティティを実感する行為だった。
自分の中にない対象人格に対する破滅的で、男の色気を醸し出す孤独な生き方が、ジュジュの心に「異文化」の香りを乗せながら侵入し、ある種の「親和感」を生み出したのだろう。
しかし、ごく普通の社会規範から逸脱することのない「芸術家」は、度を超すジュジュの振舞いに違和感を覚えるだけだった。
「警察も好きじゃないが、人殺しはもっと嫌だ」
そんな本音をジュジュに漏らす「芸術家」は、ジュジュの異常な行動を難詰するばかり。
当然と言えば、あまりに当然な話である。
「他人のことは考えないのか?俺のことも」とジュジュ。
「お前はもう友達じゃない。お前は奴を尊敬している」と「芸術家」。
この会話が端的に示すのは、「芸術家」の行動傾向が一貫して、現実原則的な「損・得」原理で動いているということ。
それに対してジュジュの行動原理は、厳密に言えば、「善・悪」原理では勿論なく、「損・得」原理でもないだろう。
それは、ジュジュのキャラに内在する「児戯性」である。
「児戯性」の行動原理は、「快・不快」原理であると言っていい。
この男にとって、対象人格の素性が何であったにしても、困っている他人のことを考え、その世話を焼くことは「快感」なのである。
まして対象人格が手負いの病気であって、その介抱を自分に要求し、且つ、その人物から「命の恩人」と感謝され、加えて件の人物が、「異文化」の香りを漂わせる「魅力」を持つと信じているならば、ごく普通の社会規範から些か逸脱する振舞いを常態化させている男にとって、その世話を焼くことは、ごく自然な行動傾向であると言えるだろう。
要するに、ジュジュには、「善・悪」原理が行動の推進力になる程の、ごく普通の「常識的成熟」に欠けるのだ。
だから、バルビエを庇うのである。殺人まで犯した逃亡犯を尊敬するのである。
前述したように、このジュジュの行動原理は、彼の親友の「芸術家」の行動原理によって見事なまでに相対化されている。
「芸術家」の場合は、「常識的成熟」によって自分の行為を決める、ごく普通の成人の行動規範を身体化する。
だから彼は、バルビエを一日でも早く追い出すためにパスポートの作成に奔走した。
それもまた、そのような状況に置かれた者の、ごく普通の行動の範疇であると言えるだろう。
ところが、ジュジュの場合は「常識的成熟」に欠けるため、バルビエを「殺人逃亡犯」という括りによって明瞭に認知できず、却って、バルビエの醸し出す男の色気や「異文化」の香りに惹き込まれてしまうのである。
然るに、そんなジュジュが手痛い失恋を体験するに至った。
彼が密かに恋慕する、バーを経営するマスターの娘のマリアが、バルビエと恋愛関係にあることを知り、衝撃を受けるのだ。
しかし彼は、「あなたは私の大切な友人よ」というマリアに対して、自分の想いを告白できないのである。
「皆は俺をろくでなしというが、全くその通りだ」
「俺は何で生きてると思う?首を吊って死にたいからだ」
このジュジュの口癖の心象風景には、マリアへの片思いを延長させるだけの時間の中枢に張り付く、彼なりのペシミズムが隠れ住んでいるのかも知れない。
ともあれ、そのジュジュは、「マリアの恋」がバルビエの逃亡をサポートするために、彼に利用されている現実を知り、より深く傷つくことになった。
バルビエから「命の恩人」と感謝されたジュジュは、当の逃亡犯の人格の本質と出会ってしまったのである。
バルビエには、「他人とは利用するための存在」でしかなかったのだ。
その現実に直面したとき、ジュジュの未成熟な自我が切り裂かれてしまったのである。
ここで再び、ジュジュの例の言葉が蘇る。
「他人のことは考えないのか」
このときの「他人」とは、マリアのこと。
今や彼は、「マリアを傷つけないため」だけの行動を立ち上げるのだ。
それは、バルビエとの直接対決を意味していた。
これは、親友のシャンソンの名手である「芸術家」に、隣家に住むジュジュが捨てた言葉。
「俺は何で生きてると思う?首を吊って死にたいからだ」
これも、ジュジュの口癖だ。
その口癖を聞かされるのも、親友の「芸術家」。
そんな男が、大事件に巻き込まれていく。
2人の警官を殺害して逃げている男とは知らず、ジュジュと彼の親友の「芸術家」は、凶悪な逃亡犯によって拳銃で脅された挙句、「芸術家」の家に作られた倉庫代わりの地下室を占拠されてしまう。
まもなく2人は、逃亡犯の犯行の詳細を、行き付けのバ―仲間の話と、その一人が持って来た新聞記事で知るに至った。
件の逃亡犯の名は、バルビエ。
当初、2人は逃亡犯のバルビエを、「芸術家」の家の地下室から早く追い出そうとするが、手負いのバルビエが病気である事実を知った。
ジュジュの心境に変化が起こったのは、この事態を経由してからである。
それでなくとも、「他人のことは考えないのか」などと言って親友を責めるほどに、人の良いキャラを持つジュジュの心には、逃亡犯に対する同情心が惹起し、それが介抱の過程を通して人間的感情による「交流」が形成されたのである。
その「交流」は、ジュジュ自身の内側にアイデンティティを実感する行為だった。
自分の中にない対象人格に対する破滅的で、男の色気を醸し出す孤独な生き方が、ジュジュの心に「異文化」の香りを乗せながら侵入し、ある種の「親和感」を生み出したのだろう。
しかし、ごく普通の社会規範から逸脱することのない「芸術家」は、度を超すジュジュの振舞いに違和感を覚えるだけだった。
「警察も好きじゃないが、人殺しはもっと嫌だ」
そんな本音をジュジュに漏らす「芸術家」は、ジュジュの異常な行動を難詰するばかり。
当然と言えば、あまりに当然な話である。
「他人のことは考えないのか?俺のことも」とジュジュ。
「お前はもう友達じゃない。お前は奴を尊敬している」と「芸術家」。
この会話が端的に示すのは、「芸術家」の行動傾向が一貫して、現実原則的な「損・得」原理で動いているということ。
それに対してジュジュの行動原理は、厳密に言えば、「善・悪」原理では勿論なく、「損・得」原理でもないだろう。
それは、ジュジュのキャラに内在する「児戯性」である。
「児戯性」の行動原理は、「快・不快」原理であると言っていい。
この男にとって、対象人格の素性が何であったにしても、困っている他人のことを考え、その世話を焼くことは「快感」なのである。
まして対象人格が手負いの病気であって、その介抱を自分に要求し、且つ、その人物から「命の恩人」と感謝され、加えて件の人物が、「異文化」の香りを漂わせる「魅力」を持つと信じているならば、ごく普通の社会規範から些か逸脱する振舞いを常態化させている男にとって、その世話を焼くことは、ごく自然な行動傾向であると言えるだろう。
要するに、ジュジュには、「善・悪」原理が行動の推進力になる程の、ごく普通の「常識的成熟」に欠けるのだ。
だから、バルビエを庇うのである。殺人まで犯した逃亡犯を尊敬するのである。
前述したように、このジュジュの行動原理は、彼の親友の「芸術家」の行動原理によって見事なまでに相対化されている。
「芸術家」の場合は、「常識的成熟」によって自分の行為を決める、ごく普通の成人の行動規範を身体化する。
だから彼は、バルビエを一日でも早く追い出すためにパスポートの作成に奔走した。
それもまた、そのような状況に置かれた者の、ごく普通の行動の範疇であると言えるだろう。
ところが、ジュジュの場合は「常識的成熟」に欠けるため、バルビエを「殺人逃亡犯」という括りによって明瞭に認知できず、却って、バルビエの醸し出す男の色気や「異文化」の香りに惹き込まれてしまうのである。
然るに、そんなジュジュが手痛い失恋を体験するに至った。
彼が密かに恋慕する、バーを経営するマスターの娘のマリアが、バルビエと恋愛関係にあることを知り、衝撃を受けるのだ。
しかし彼は、「あなたは私の大切な友人よ」というマリアに対して、自分の想いを告白できないのである。
「皆は俺をろくでなしというが、全くその通りだ」
「俺は何で生きてると思う?首を吊って死にたいからだ」
このジュジュの口癖の心象風景には、マリアへの片思いを延長させるだけの時間の中枢に張り付く、彼なりのペシミズムが隠れ住んでいるのかも知れない。
ともあれ、そのジュジュは、「マリアの恋」がバルビエの逃亡をサポートするために、彼に利用されている現実を知り、より深く傷つくことになった。
バルビエから「命の恩人」と感謝されたジュジュは、当の逃亡犯の人格の本質と出会ってしまったのである。
バルビエには、「他人とは利用するための存在」でしかなかったのだ。
その現実に直面したとき、ジュジュの未成熟な自我が切り裂かれてしまったのである。
ここで再び、ジュジュの例の言葉が蘇る。
「他人のことは考えないのか」
このときの「他人」とは、マリアのこと。
今や彼は、「マリアを傷つけないため」だけの行動を立ち上げるのだ。
それは、バルビエとの直接対決を意味していた。
(人生論的映画評論/リラの門('57) ルネ・クレール <内在する「児戯性」――その「快・不快」という行動原理のアポリア>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/08/57.html