レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ('89)  アキ・カウリスマキ <「変ったバンド」による「変った音楽映画」、「変ったロードムービー」>

 本作のコメディは、ウィットやユーモアというより滑稽感を基調としている。

 このコメディの滑稽感を支えているのは、「イメージギャップによる不均衡感」と、殆ど台詞のない映像を、様々に個性的な絵柄(構図)が醸し出す「間」である。

 シンプルなストーリーラインは最後まで貫流しているが、音楽を基盤にしたロードムービーのうちに特段の彩りを加えることもなく、淡々として筆致で進行するミニ・サクセスストーリーは閉じられていく。

 ここで重要なのは、「イメージギャップによる不均衡感」が、幾分前のめりのスタンスで、ギャップの修復が観る者の受容能力の中で処理されてしまうと、単線形のイメージラインを確認するだけで読み切ってしまうだろうということである。

 それをプロテクトするためなのか、作り手はそこに余分なスラップスティックを張り付けることで、物語の稜線を伸ばそうとしたように思われる。

 具体的に言えばこうだ。

 まるで「民族衣装」の如く、その土地の者(犬も含む)が皆そうであるような、旧ソ連の軍服を模した、全身ブラックスーツの衣装で包んだ鋭い尖りのリーゼントと、サングラスと先の尖った靴で身体表現する若者たちが、実は、シベリアの極寒の地でトラクターを運転し、農作業に勤(いそ)しむ真面目さを内包させつつ、その合間に、「ポルカ」などボヘミアをルーツとする民族音楽を大音響で演奏するバンドマンであるということ、且つ、そんな彼らの健気で殊勝な振舞いのパターンが受容されることで、その「イメージギャップによる不均衡感」が生み出する滑稽感には、読み切りコミックの中でも賞味期限があるだろうということである。

 件の彼らが狡猾なマネージャーのウラジミールに唆されて、NY行きを決め、そこで一旗揚げようという企画に純粋にアクセスする。

 一貫してウラジミールに従順な彼らは、命じられるままに、飛行機の中で英語学習に勤しみ、NYに着いてからも、NYのプロモーターから「今、流行ってるのはロックンロールだ」と言われたことで、音楽のジャンルをロックンロールに変更させられた挙句、ウラジミールに「教材」を与えられ、有無を言わさず、メキシコ行きを決められるのだ。

 その際も、メンバー全員がしゃがみ込んだ状態で、「ロックンロールを知ってるか?」とウラジミールに聞かれ(彼もロックンロールを知らず、レコード店にまで出向く)、「これを読め」と一冊の本を渡されるだけ。

 ロックンロールへの初めてのアクセスにも、例によって、彼らは熱心に摂取しようと努めるのである。

 NYでのエピソードも愉快なもの。

 「街中暴力だらけだ。NYでは皆が殺される。テレビで観た」

 ウラジミールから25セントを受け取って、NYのバ―で静かに飲む面々もいれば、真顔でこんな言葉を結ぶメンバーもいるのだ。

 彼らはどこまでも、「人を疑うこともしないような、些か教養不足で、音楽好きの純粋な青年たち」なのである。



(人生論的映画評論 レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ('89)  アキ・カウリスマキ <「変ったバンド」による「変った音楽映画」、「変ったロードムービー」>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/08/blog-post.html