路('82)  ユルマズ・ギュネイ  <フラットな「モラル」を制圧する、歴史文化的な陋習が堅固に張り付いて>

 中東圏で唯一、近代化を達成したはずの非アラブ系のトルコの非近代的な現実、とりわけ、民主主義を最高の政治制度と信じて止まない国民国家に呼吸する人々から見れば、女性に対する人権状況の劣悪さをまざまざと見せつけられたのが、ギュネイ監督の「路」と「群れ」(注3)。

 その中でも、幾つかのエピソードをパラレルに進行させた構成によって成る、拙くも、その直接性において抜きん出て激越なメッセージを無造作に投げ入れてくる、「路」という映像の中で描かれた、有名な雪中シーンの衝撃は終世忘れられないだろう。

 リアリズムの圧倒的な力動感で押し切った腕力の前に、一瞬、逡巡するナイーブさを晒してしまうのだ。

 物語は、五日間の仮出所を赦された男たちの、苛酷な帰村の現実を描くもの。

 ある者は、命を落としたクルド族のゲリラの兄の意志を継ぎ、恋人と別れ、銃を持って前線に出撃する。馬に乗って、草原を颯爽と疾駆する男は、もう充分に次代を繋ぐ独立派のクルド人だった。

 また、ある者は銀行強盗を犯したときに、見殺しにしてしまった相棒の家族の恨みを買って、妻の兄弟によって、その妻と共に射殺された。

 そしてある者は、不貞の妻を殺すことを強いられ、愛する妻を雪中に置き去りにしたのである。

 妻を雪中に置き去りにする理由は、映画製作時点で残存していた、「姦通罪」による「名誉ある殺人」(貞操を破った妻を殺害する行為の正当化)の行使であり、家の名を汚さないための「義務」でもあったという冷厳な現実である。

 但し、「姦通罪」は20世紀末に憲法裁判所によって撤廃されている。

 その後、エルドアン政権は姦通罪の復活法案を提出したが、のち廃案となっているという事実も無視できないだろう。

 何より、その背景に垣間見える世界は、「モラル」の緩やかな縛りを越えた、歴史文化的な陋習(ろうしゅう)とも言える、極めて根拠の稀薄な、家族・部族・民族の防衛戦略が横臥(おうが)していると思われる。

 なぜなら、少なくともこの国の家族の絆は、保守派が言うほどに、「姦通の自由」(?)が「認知」されても崩壊しなかったという報告があるからだ(注4)。

 ともあれ、映像の若き妻は、夫の入獄中に生活苦の故に「姦通」した「罪」のため、実家に戻された挙句、パンと水の「配給」のみで永く鎖に繋がれていたのである。

 雪中に置き去りにされた妻は、夫に赦しを乞い、悲痛に訴える。

 凄い描写だった。観ていて震えが走った。

 夫はたまらずに、妻の元に駆け寄った。

 赦せないが、赦したいのだ。

 赦せないものは、長く人々を繋ぎ止め、支えていた封建的慣習である。赦したいものは、それでも妻への深い愛情である。

 男は、この二つの矛盾した感情を、雪中で展開した。

 共同体が強いる絶対規範と、個人の人格的救済への喘ぎの葛藤が破綻したとき、男は凍死寸前の、息も絶え絶えの妻を背負って、山を駆け下って行った。

 結局、妻を救えなかった男の束の間の旅の向こうに、一体、何が待つのか。

 この重量感が映像を貫いて、良かれ悪しかれ、拡大的に定着した私権感覚と相対思考を手放せない、我が日本の有りようとの落差に束の間、言葉を喪うが、歴史・文化・宗教・慣習の全く異なる両者の比較を、民主主義を最高の政治制度と信じて止まない国民国家に呼吸する人々の、特定的に切り取られた僅かな情報で武装する類の、その俯瞰する視線によってのみ断罪するアプローチからでは、恐らく何も生まれてこないだろう。

 その類の安直な比較の怖さは、比較の対象となるものに対する総体的な把握の困難さを度外視して、情感的に反応するだけのナルシズムのゲームに流れやすいので、返す返すも慎重でありたいものである。

 喪った言葉を補う何ものも、そこには不要であるだろう。

 何より、そこで映像化された表現者の確信的なメッセージを、合理的に濾過し得る知的スタンスだけは確保しておきたいものだ。

 政治犯としてのギュネイは、獄中からの克明な指示によって社会派ムービーの問題作を完成させ(「群れ」)たばかりか、よりラジカルなこの「路」もまた、仮釈中に完成させ、その年のカンヌを制覇したという伝説的な逸話を持つ映像作家である。

 当人は41歳の若さで逝った映像作家でありながら、20年近く経た今も、「路」の突破力は一頭地を抜く劇薬であるだろう。

 私には雪中シーンのみが内側に深く張り付いて、「赦しの心理学」という人間学的なテーマを恒久の主題にした次第である。

 人が人を簡単に赦すというとき、人はそこに赦せない何ものも抱えていない。

 赦すと言い放って、自らの優越を確認するだけの赦しのゲームも、この世に溢れている。

 然るに、赦せない何ものかを背負っているから、赦しは限りなく辛いのだ。

 最後にそれでも赦すと言い放つとき、人々は赦せない何ものかによる呪縛を、自ら解き放つ決断に賭けたのである。赦しはこのように重く、限りなく痛切なのだ。

 雪中シーンが展開して見せた時間の重さは、赦しに向かう男の最も深遠な決断の重さであった。

 ところが、この時間の重さには、上述したように、部族社会の特殊性を保持する都市圏外の地域の中において、フラットな「モラル」の緩やかな縛りを越え、それを制圧する歴史文化的な陋習が堅固に張り付いているので、民主主義の制度に補完された「モラル」感覚の強引な押し出しの内に、件の歴史文化の特殊性を考慮に入れることのない「赦しの心理学」の視座によっては、残念ながら、事態の本質に肉薄し得ないし、単に観念が空転して、いつまでも自己未完結の状態を延長させるだけであろう。

 ゆめゆめ、「赦しの心理学」を拡大解釈するなかれ。それが、かつて本作と痛々しい思いで付き合った私自身の自戒の念であった。


(人生論的映画評論/路('82)  ユルマズ・ギュネイ  <フラットな「モラル」を制圧する、歴史文化的な陋習が堅固に張り付いて>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2009/12/82.html