裏窓('54) アルフレッド・ヒッチコック <キャラクターイメージの「変換」という、ヒッチコック魔術の映像構成力の妙>

 1  「非日常」の地平に辿り着くまでの、長く曲折的な時間の中で放たれる緊張感



 本作の凄い点は、脚を骨折して、ギプスを嵌める車椅子生活を余儀なくされた報道カメラマンの、その固定された視点のみで物語を構築し得たことにある。

 まさに本作は、映像の可能性の一つの極点を検証した表現技巧の勝利であると言っていい。

 ロールスクリーンが上がることがオープニングのシグナルとなって、まるで舞台劇の如き、以上の極限的な物語設定の内に、映像を観る者も、件のカメラマンの固定された視点のみで物語をフォローしていくことを余儀なくされるのだ。

 そこから開ける、中庭を挟んだ向かい側のアパートの窓を通して、観る者は、他者の「日常性」を「覗き見」する小宇宙に吸収される心地悪さを共有してしまうのである。

 件の報道カメラマンの名は、ジェフ(画像右端)。

 そのジェフの退屈極まる生活を少しでも潤す時間が、他者の「日常性」の「覗き見」であるということ。

 そこには、特段に「人間観察」などという高尚なモチーフが包含されている訳ではない。

 単なる暇つぶしである。

 そんな男の好奇の視界に収められるのは、ごく普通の「日常性」を繋ぐ、普通の人々の様々な人間模様。

 新婚男女らしきカップルが、窓を閉めて濃厚なセックスを予想させるシーン。

 冒頭から、下着のみで踊るグラマー‐ガール。

 彼女は多くの男たちを相手に、燥(はしゃ)ぐのが好きなバレエダンサー風のギャルだ。
 
 毎夏、テラスで寝ることを趣味にしているかのような、犬好きの中年夫婦。

 絶えずピアノに向かって煩悶する、売れない(?)作曲家。

 孤独を癒すかの如く、愛を渇望しているようにも見え、後に自殺未遂を図るオールド・ミスの女性。

 ジェフが、「ミス・ロンリー」と命名する件の女性のケースになると、彼らの心象世界まで「覗き見」できてしまうから性質(たち)が悪い。

 要するに、普通の人間の普通の風景を「覗き見」できてしまう気まずさが、そこにある。

 ところが、そこはさすがにヒッチコック

 ジェフの「覗き見」の趣味を、一級のサスペンスに仕立て上げたのだ。

 つまり、手持ち撮影によるエクサクタの、高倍率の望遠レンズを使用しての、ジェフの「覗き見」が捕捉した小宇宙が、他者のフラットな「日常性」ではなく、夫婦喧嘩の挙句の果て(?)の、「セールスマンによる妻殺し事件」という「非日常」だったのである。

 この地平に辿り着くまでにフェードアウトを繰り返す、長く曲折的な時間の中で放たれる緊張感と不安感こそが、まさに、サスペンスの極意であることを検証した表現技巧の勝利 ―― それが「裏窓」だった。



(人生論的映画評論/裏窓('54) アルフレッド・ヒッチコック <キャラクターイメージの「変換」という、ヒッチコック魔術の映像構成力の妙>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2011/03/54.html