裸の島('60) 新藤兼人 <耕して天に至る>

 1  必要な時間に必要な動きを、必要なエネルギーによって日常性を繋いで



 乾いた土
 限られた土地

 映画「裸の島」で、冒頭に紹介されるこの短いフレーズの中に、既に映画のエッセンスが語られている。

 映画の舞台は瀬戸内海に浮かぶ、僅か周囲四百メールの小島。

 この狭い限られた土地はボタ山のように、天に向って遠慮気に突き出していて、しかも土壌は乾ききっている。この劣悪な自然環境下で、自給自足の生活を営む四人の家族。

 この映画は、彼らの一年の日常性をドキュメンタリー風に、淡々と、時には哀感を込めて綴った物語である。
 
 二人の息子を持つ中年夫婦は、この積み上げられたような痩せた土地に段々畑を作り、そこで麦や芋を栽培している。夫婦はまだ夜が明けきらぬうちから伝馬船(櫂によって操作される小型和船)に乗って、隣の大きな島に水をもらいに行く。これが家族の一日の始まりである。
 
 四つの桶を天秤棒に担いで往復するこの作業は、夫婦の日常性の重要な一部になっているのだ。

 伝馬船が戻って来る頃には日が昇っていて、息子たちはその間飯を炊き、朝食の準備に余念がない。水を運んで来た夫婦は昨日もまたそうであったように、小さな庭に作られた食卓につき、黙々と朝食を済ませ、次の作業に移っていく。

 登場人物たちの台詞がないこの実験映画で、家族のこの日常的な描写に不自然さが全く感じられないのは、四人がそれぞれの与えられた役割を果たしていて、そこに流れるような生活の律動感が存在するからである。必要な時間に必要な動きを、必要なエネルギーによって日常性を繋いでいく。そこに作られた秩序は、既に家族一人一人の身体に溶け込んでいて、絶対的な不文律になっているかのようだ。

 夫婦は天秤棒を担いで、ゆっくりと耕地を上っていく。

 夏の陽光が夫婦の身体を灼き尽くすかのような厳しさの中に、水を一滴も零すまいとする表情が伝える緊張もまた、彼らの日常性の一部なのだろう。



 2  黄金の水に対する思いの深さ



 夫婦は冬に蒔いた種から出芽した生命に、桶の水を柄杓(ひしゃく)で汲み取って土に染みこませるように撒いていく。子供を育てるような優しさを髣髴させるこの描写が語るのは、単に生命への畏敬ではない。恐らく、命の次に大事であろう黄金の水に対する彼らの思いの深さが、そこにある。

 それを象徴する印象的なシーンがあった。

 天秤棒を担いで上る妻が躓(つまづ)いて桶の水を零してしまったとき、それを見ていた夫が、その場で立ち竦む妻の頬を思い切り平手打ちにしたのである。それだけだった。妻は別に涙を流すわけでもなく、夫もまたそれ以上責めることもない。

 会話のない映像の不自然さが若干気になるが、それは恐らくこのような事態を何度も経験してきた者たちの、その日常性の範疇に属する事柄なのだろう。だから謝罪とか、励ましとかいう言語的アプローチを不要にしてきたと言えようか。

 同時に、黄金の水に関る失態は、農作業の生命線を脅かす恐れがあるという黙契がそこにある。夫の一撃を黙って受容する妻がそこにいて、「失態を減らせ」と深く願う夫が、その傍らで見守っている。相互の強い信頼関係なしに成立しない構図が、そこに垣間見えるのだ。



(人生論的映画評論/裸の島('60) 新藤兼人 <耕して天に至る>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2008/11/blog-post_17.html