名画短感⑩ モナリザ('86) ニール・ジョーダン監督

 ニール・ジョーダン監督の「モナリザ」は、忘れられない映画である。

 冴えない中年男が、謎の女に恋をした。

 初めは恋ではなかった。

 ボスの身代りに入っていた刑務所から出所して来たその男、ジョージは、美しい黒人娼婦、シモーヌの専属運転手の仕事をもらい、およそ吊り合いの悪い二人は、初めはいがみ合っていた。

 そんな男の心が変化していくのは、女の謎の行動の意味が明かされてきて、そこに同情の気持ちが芽生えたからである。

 女の暗い過去や、街娼していた頃の仲間を救い出そうとしている事実を知って、男は柄にもなく騎士の振舞いを買って出るのだ。

 その振舞いが頂点に達したのは、女の追う昔のポン引きが刃物で襲って来て、これを体で受け止めたときだ。男は、そこまでして女を守ろうとして見せたのである。

 男の純愛が女の世界に深入りして、そこに犯罪の臭いを嗅いだ。

 男は女を救出しようと、柄にもなく一端の男っ気を見せるが、女は男というものを全く信じていなかった。

 男を信じられない黒人娼婦の哀しさは、それを演じる女優によって見事に表現されている。

 女を喰いものにして生きてきた性悪なヒモによって、恐らく、人格の支配下にある隅々なる部位に刻印されているようであろう、男というものの普遍的な負性価値。それが、どんなときでも、シモーヌの男へのスタンスを決めてしまうらしい。

 経験が到達した文脈を、経験を媒介しない理念が、無媒介に制圧できる道理がある訳がないのだ。

 ジョージは、決定的な局面で、シモーヌから袈裟懸けに斬り伏せられたのである。

 生涯に一度、あるかないかの男の純愛が、その純愛の相手から踏み躙(にじ)られたのだ。

 俺を、そんな風にしか見なかったのか。

 男は、そう吠えた。

 それが、男の恋の終焉を告げた。

 男は去って行った。女と出会う前の冴えない日常の世界に。

 その世界で、常にジョージに寄り添っていた友人トーマスが、それまでもそうであったように、今もまた、傷心のジョージを労わった。「癒し」の役割キャラを請け負った、この目立たない男の緩やかな空気感が、ここで絶妙の彩りを添えるのだ。

 それだけの映画である。

 それだけの映画なのに、涙が止まらなかった。

 ジョージを演じたボブ・ホスキンスの表情の微妙な変化に、自然に感情移入できたからであろう。

 そのあまりに釣り合いの取れない恋に、たまらなく哀切を覚えた。

 寅さん映画では決して拾えないない様々に歪んだ人間像(例えば、マイケル・ケイン扮する酷薄なヤクザのキャラクターは、微笑の奥の卑劣な人間性をリアルに表現していて印象的)が、随所に存在感を映し出していて、フラットな失恋映画やフィルムノアールにも流れていなかった。

 そのあたりの緻密な描写が抜きん出ていて、さすがスタイリッシュな映像世界を構築する、ニール・ジョーダンの表現技法を再確認させられる思いであった。

 短絡性と曲折感覚を同居させる男の生き方をも考えさせた、その何とも言えない描写の深みに、響き合うものを感じたのかも知れない。

 身の丈を超えた男の独り善がりの恋は破綻したが、女と関わった日々の記憶が男の内側を心地良く濡らして、いつの日か、幾分でもより確かなものに拠って立つ自己を、再び立ち上げていくかも知れない余情をそこに残し、天晴れな映像は静かにフェイドアウトする。

 男は束の間、スーパーマンに化けようとした。

 化けられる訳がないのだ。

 それに気づくために払った代償は小さくない。男には初めから翼がなかったのだ。男がそうであるしかない世界に立ち帰り、その等身大の宇宙を生きていくしかない。

 女との出来事は、余情となって男の中に棲み、その眩しい彩色が男をしばしば誘って、男は再び化けることを夢想するかも知れない。

 それはそれでいいのだ。どうであっても、男は男がそうであるしかない世界に戻る他ないのだから。

 「モナリザ」は、男にとって常に鑑賞の対象でしかないのである。

 鑑賞もまた、多くの男たちを非日常の世界に誘って、日常に活力を与える何かにはなる。ゲームとしての人生もまた、時には必要だからである。

 
(人生論的映画評論/名画短感⑩ モナリザ('86) ニール・ジョーダン監督 )より抜粋http://zilge.blogspot.com/2009/12/86.html