誰も知らない('04)  是枝裕和  <大いなる空砲の幻想>

 1  「全て社会が悪い」という論理的過誤



 ―― 自分の問題意識にテーマを引き寄せるという些か強引な手法を、更に拡充させていく。具体的には、本作への批評を大幅に逸脱して、ここでは人生論的な評論ではなく、状況論的な映画評論を記していきたい。
 
 
 この映画をどう読み解いたらいいのか。作り手の意図した基本構図とは何だろうか。

 この映画の読解を、以下、私なりに解釈してみよう。

 
 身勝手な母親に捨てられた子供たちの苛酷な現実と、その現実を薄々知りながら、何も知らなかったような振りをしたり、或いは、自らの良心を証明したりするために、「自分はこれだけのことをした」という自己了解性のうちに、子供たちの現実と自分との間に引いた見えないラインを越えないようにして、少なからず彼らに関わった、恐らく平均的で善良な市民を演じ続けた大人たちの、丸ごと現代的な関係のスタンス。(後述する)

 その両者の埋め難い現実へのシニカルな視座があり、その視座が把握する向うには、「誰も知らない」的状況を作り出した地域コミュニティの崩壊への認知と、更にそのような状況の発生源としての政治、社会的、且つ制度的なるものへの告発といった、イデオロギー濃度の深い面々が相も変わらず噴き上げる、「全て社会が悪い」という「大いなる空砲」を感じさせる把握がそこにある。言い過ぎだろうか。
 
 子供をダメにするのは大人である。

 無論、この把握は決して間違っていない。

 ここで描かれた事件の背景に、地域コミュニティの崩壊があるという認知も間違っていない。恐らく作り手は、この映画のモデルとなった事件の背景のうちに炙り出された、「大人たちの無関心」への怒りのような感情がライトモチーフとなって、それを描くにはどうしても避けられない背景描写という難題を突破する覚悟で、その艱難(かんなん)な表現世界に踏み込んだに違いない。

 しかし、ラストシーンでの、「子供共同体」への出撃を思わせる創作的描写によって、明らかに、本作はリアリズムとの対決を回避した。そこには、驚くべきほどの自然な演出を貫いた生活描写のリアリズムと、「ここまで追い込まれても、虐待や犯罪に走らない」という展開の非リアリズム(ハッピー・トーク)の矛盾が曝け出されて、ドキュメンタリーに創作性を加えたダルデンヌ的手法が、描写に躍動感を与えつつも、結局どこが問題なのか不分明な映像になってしまった。

 なぜか。

 私には、作り手の状況論、文明論と人間論の把握の脆弱さが根本要因のように思われる。地域コミュニティの崩壊への認知には問題がないのに、そこからの展望が出てこないのは、既に、作り手がそれを「ないものねだり」として把握しているからだろう。「ないものねだり」の認知の中からは、「荒廃した社会」と早々と縁を切らせ、「子供共同体」への出撃を期待し、それをサポートしようとする思いしか繋げないのだ。

 では、4人の子供たちを苛酷な現実に追いやったものは、冷たい世間なのか、無関心な大人たちなのか。或いは、政治なのか、その政治を司る立場にある「時の権力者」(行政権の最高責任者)なのか。

 そこに幾分かの因果関係が垣間見られるという理由を否定できないことが、決して事態の本質を説明できない論理的常識を認知すれば、この場合もまた、「荒廃した社会」と、その社会を政治的にリードする立場にある者の責任の決定性について、声高に断罪し得る物言いは明らかにフェアではないだろう。

 思えば、いつの時代にも一定の確率で出現するであろう、愚昧な大人たちが犯す違法行為や愚行の全てを、そのつど時代や社会の所為にすることによって納得し得る情報処理の手法は、極めて短絡的な把握であるが故に、しばしば恐ろしいほどに支持されやすい感情文脈であると言っていい。

 とりわけ、性急な現代人は曖昧さと共存することを忌避する傾向が強いため、常に分りやすく、誰の眼にも見えやすい飛躍的な結論に、事態の因果関係の軟着点を求める短絡性を往々にして晒していると思われる。そこに、「単純化の時代」の危うい陥穽が潜んでいるのである。仮説の検証の難しさを認知する合理的な知性こそが、切に求められる所以なのだ。

 「社会が悪い」、「今の若者は・・・」という常套フレーズが、人類史を貫流させてきた現象の滑稽さを、私は今更のように感受する次第である。

 全く誤謬のない完璧なシステムを、当該社会が具備させることが困難なのは、人間が不完全な知的生命体であるからだ。とりわけ、近代以降の歴史が直面するテーマが、いつでも「未知の領域」への開拓と果敢な突破という、厄介な事態を背負っているので、より複雑で、分業化した社会に呼吸するハイパー近代の現実の中で、人々が事態の情報処理を「単純化」させようとする心理は決してパラドックスなどではないのである。

 寧ろ、そういう厄介な時代であるが故に、常に飽和点に達しつつある人々のストレスを、違和感なく吸収し得る簡便な情報処理の方法論として、より「単純化」させようとする心理が自然裡に形成されたとしてもおかしくないのだ。だから私たちは安直に、この陥穽に搦(から)め捕られてはならないのである。

 
 
(人生論的映画評論/誰も知らない('04)  是枝裕和  <大いなる空砲の幻想>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2008/10/04.html