名画短感⑭  裁きは終わりぬ('50)  ンドレ・カイヤット監督

 主題提起の強引さが物語を作り過ぎたという一点を除けば、ほぼ一級の名画と言っていい社会派ドラマ。

 本作のテーマを、簡潔に要約すれば、以下の通り。

 「約束」の故に、図らずも安楽死を遂行した女性被告を裁く、7人の陪審員たちのその判決の内実が、彼らの人生観や人生模様を、そのまま反映されてしまうことの怖さを通して、「人が人を裁くことの困難さ」を根源的に問うものと言える。

 従って本作は、「安楽死」の是非を問う映画ではなく、弁護士である監督自身の経験を色濃く反映させて、陪審員制度の是非の問題を包括しつつ、「人が人を裁くことの困難さ」という、人間の能力の根源性にまで視野を広げた作品として構築されていた。

 そんな本作のテーマを、二人の陪審員の主張を紹介することで、本作の構造性が透けて見えるだろう。

 以下、それを引用する。

 「被告は社会の慣例を犯して自分の考えを貫き、その責任を負った。2人を愛していたから悲劇だ。苦しんだろう。自由も愛も犠牲に。子供を持つことさえできない。有罪を宣告すれば、自殺するかも知れない。誠実そのものだが、有罪には違いない・・他人の行動を裁けと言われたら、答える道は一つ。自分なら同じことをしたかどうかということだ。カトリックの私なら殺さなかった。病人の苦しみを見たら同情するのも無理はない。だが、試練にはそれなりの意義が。神の意志だ。生死を決めるのも神だけ。私たちには許されてない」

 この信仰厚い陪審員の主張は、7人の中で最も彼自身の人生観、宗教観を反映された真摯な議論になっているが、実はそんな彼の人生模様を映像はシビアに拾い上げていた。

 彼はカトリックの熱心な信徒だが、癲癇(てんかん)の息子を持っていることの辛さで、自らの手で殺してしまった方が良いとさえ思う心情を、ギリギリに乗り越えてきたという自負ゆえか、「生死を決めるのも神だけ。私たちには許されてない」との判断に帰着するのだ。

 即ち、彼もまた自分の現在置かれている人生の重さを、有罪宣告に投影されていることが判然とするのである。

 そんな彼の議論の後に、自説を主張したのが、フェリックス・ノブレという名の陪審員

 彼は主張する。

 「確かに俺たちには殺人は許されていない。だが有罪を宣告すれば、それは死刑だ。殺人だ。もっと論理的に説明しよう。殺しとして頼まれても失敗したかも。どんな名医でもミスはつきものだ。そうですね?陪審員も誤ちを犯すかも知れん。どんな学問した偉大な学者も誤りはある。避けられない。人を裁くのに誤ちを犯さないと言えるか?人の心は読めない。私が裁く以上、愛する者たちを別れさせはしない」

 この主張が、最も本作のテーマに肉薄するものとなっていた。

 しかし、そんな彼もまた、「被告」と同様に愛情問題を抱えていたのだ。

 愛人への「安楽死」の「約束」の故に、「罪」を犯した「被告」が、もう一人の愛人と関係を持っていて、その愛が実ることない現実を目の当たりにすることで、「被告」に同情し、無罪表明を結んだのである。

 映像が最後に拾った、別の陪審員の言葉がある。

 「あと一人で、彼女も救われた」

 今や目障りでしかない愛人に、自殺されたプレイボーイの一言。

 極めて真摯な問いかけだが、実は彼もまた、自分を追い駆ける女の自殺という負い目を持っていたのである。

 このように、ここで展開されるスト―リーは、どこまでも主題に合わせる強引さを引き摺っていた瑕疵を晒していたが、映像の問いかけは普遍的であり、根源的な問題であった。

 それでも、「裁判員制度」の実施の現実の只中で、私たちは本質的脆弱さを抱えながらも、「被告」を裁く法的行為から回避できない十字架を負っているのである。

 
 
(人生論的映画評論/名画短感⑭  裁きは終わりぬ('50)  ンドレ・カイヤット監督)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2011/01/50.html