かもめ食堂('05) 荻上直子 <「どうしてものときはどうしてもです」―― 括る女の泰然さ>

 1  「距離の武術」としての「アイキ」の体現者



 合気道―― 「理念的には力による争いや勝ち負けを否定し、合気道の技を通して敵との対立を解消し、自然宇宙との『和合』『万有愛護』を実現するような境地に至ることを理想としている。主流会派である合気会が試合に否定的であるのもこの理念による。『和の武道』『争わない武道』などとも評される」(ウイキペディア)

 戦前に、その終末論によって国家権力から徹底的に弾圧された大本教との関連で、植芝盛平によって立ち上げられた合気道の本質は、以上の説明で判然とするように、相手を決して殺傷せず、どこまでも先に攻撃する相手の力を利用した護身武術である。植芝盛平は、「合気とは愛なり」と言い切ったそうである。

 車椅子でも相手を倒す武術との出会いで、屈折した人生を変えていく青年を描いた、「AIKI アイキ」(2002年製作)のモデルとなった合気柔術こそ、合気道のルーツと言える武道であるが、「合気とは、相手を受け入れることです」と言い放った師範の言葉の中に、相手の攻撃を利用してそれを返していく、「後の先」(ごのせん)という合気道の基本スタンスがあると言えるだろう。

 言わば、合気道とは、「ひたすら待機する武術」であるのかも知れない。

 この「武術」という言葉を、「食堂」という言葉に変えると、本作の「ミニサイズのスーパーウーマン」のスローライフ人生に重なるのではないか。

 彼女は、北欧ヘルシンキ市街の、誰もいない「かもめ食堂」というカフェ&レストランの中で、完璧な準備をしながら一貫して待機し続けるのだ。

 こんな会話があった。

 客の来ない店を宣伝するために、ヘルシンキのガイドブックに載せることを提案したミドリに対して、「スローテンポのスーパーウーマン」(サチエ)は、明瞭に答えたのである。

 「毎日まじめにやってれば、そのうちお客さんも来るようになりますよ。それでもダメなら、そのときは、そのとき。止めちゃいます」

 彼女は覚悟を括っているのだ。しかも「逃避拒絶」という意味合いではなく、どこまでも自分サイズの人生のテンポによって、「ダメなら止めちゃいます」と言い切れるほどに、腹を括っているのである。

 毎日欠かさない「膝行」(しっこう=膝歩き)という合気道の基本鍛練や、時々、誰もいない市内のプールで遊泳する「マイスポーツ」によって、堅固な「防衛体力」(スポーツの意義の一つ)を形成し、自分が食べたい物を毎日しっかり食べて、昨日もそうであったような、自分に見合った律動で生きる秩序だった生活をごく普通に送っているに過ぎないが、しかし合気道精神に則ったこの規則正しい時間の構築こそ、彼女の「能動的待機」の人生の根幹を支えているように思えるのだ。

 「相手を受け入れること」に対する彼女の自然な振舞いは、その相手と別れる事態になっても、相手を自分の下に留める未練の感情を全く見せないのである。

 「ずっと同じままではいられないものですよね。人は皆、変わっていくものですから」

 この言葉は、空港内で自分の荷物が見つからないで、同様に「待機」の時間を持て余していたマサコが、偶然の縁を持ったサチエらと別れるに至った際に、既に相棒同然の縁を持ったミドリに返した言葉。

 「私がいなくなっても淋しくないですか」と、淋しさを隠し切れないミドリは、「いい感じで、変わっていくといいですね」と反応するしかなかったのである。

 「大丈夫、多分…」

 これが、サチエの一言。それ以上、この一件に何の反応もすることはなかったのである。

 彼女は「距離の達人」でもあった。

 「距離の達人」の強さは、逆境下にあっても、基本的に一人で生きていくことを前提に、人生を構築できるほどの「胆力」を持ち得る強さである。

 幼少時より父親から指導を受けてきた彼女の合気道精神は、まさに「距離の武術」としての「アイキ」の体現者だったのか。

 合気道で鍛えた胆力で、どんな事態にも合わせて、慌てず、騒がず、たじろがず、閑古鳥が鳴く日々にも泰然として、この「かもめ食堂」の「オーナー」は、最初の客であるという理由によって、日本贔屓(びいき)のフィンランド青年に平気で無料のコーヒーをサービスしてしまうのだ。

 その後、「シナモンロール」の美味な臭いによって客層を開拓しても、「ソウルフードとしてのおにぎり」に象徴される「食堂」への拘りを捨てないように見える彼女の原点は不分明だが、映像を開いていくときに記録された彼女自身のナレーションによって、その一端を窺うことが可能である。

 「フィンランドのカモメはでかい。丸々太った体で、港をのしのし歩く姿を見ると、小学生の頃に飼っていた『ナナオ』を思い出す。『ナナオ』は体重が10.2キロもある巨漢三毛猫だった。誰にも懐かず、近所の猫にはすぐに暴力を振い、皆の嫌われ者だった。

 でも、なぜか私にだけはそのでかい腹を触らせてくれ、喉をゴロゴロといわせ、私はそんな『ナナオ』が可愛かったので、母に内緒で餌を沢山与えていたら、どんどん太って、そして死んだ。

 『ナナオ』が死んだ次の年、トラックに撥(は)ねられ、母が死んだ。母のことは大好きだったが、なぜか『ナナオ』が死んだ時よりも、涙の量は少なかった。それは武道家の父に、『人前では泣くな』といつも言われていたからではない気がする。私は太った生き物が弱いのだ。おいしそうにご飯を食べる太った生き物にとても弱いのだ。母はやせっぽちだった」

 太った生き物だった「ナナオ」に餌を与え続けることを、「やせっぽち」の母に禁止されながらも、それを止められないで死なせてしまった記憶が、どこまで少女の「トラウマ」となっていたかについて判然としないが、それでも「やせっぽち」の母との比較で語られるナレーションは、父から作ってもらったおにぎりの記憶の鮮明さ(他の描写の中での本人の弁)等によって、「人から作ってもらったもの(とりわけ、おにぎり)は美味しいい」という強い思いに結晶化し、加えて、武道家の父との強い絆の内に形成された泰然とした精神性の補強が、彼女の「芯」となっていく自我形成プロセスの、そのアウトラインを構築してきた内面世界の一端を読み取ることもできるだろう。

 「フィンランドの丸々太ったカモメ」は、「ナナオ」の再来であったのか。

 健康的な肥満をイメージさせて、いつもゆったりと生きているように見えるフィンランド人に、決して肥満でも「やせっぽち」でもないスモールサイズの彼女は、「ソウルフードとしてのおにぎり」を食べさせてあげたいと念じているに違いなかった。



(人生論的映画評論/かもめ食堂('05) 荻上直子  <「どうしてものときはどうしてもです」―― 括る女の泰然さ>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2009/07/05.html