さらば愛しき大地('82)  柳町光男  <自己を肥大させて生きた男の約束された崩壊現象>

 1  決定的に変わり切れない人生を繋ぐ不器用さの、あられもない姿



 鹿島臨海工業地帯のコンビナートの硬質な風景から、夜間の人工灯が洩れる異様な風景の中をクレジットタイトルが刻まれて、それを、地の底から染み出るような横田年昭の異界の音楽が、際限なく重く、隠し込んだ闇の奥に潜り込んでいく。

 そこから開かれた映像のファーストシーンは、もっと異様だった。

 一人の男が喚き、叫んでいる。

 家の中の柱に縛られた男の叫びは、この男の人格崩壊を描く本作のダークサイドを、その異常なシーンの内に収斂されていた。

 「そんなに僻(ひが)むでねえ」

 叔父の一言に、男の叫びが再び点火され、吠えまくるのだ。

 「叔父さんには分んねえよ!ここの親は、この家の跡取り息子よりも、次男坊の方が可愛いんだとよ。俺は明彦みてえに、この家ば捨てねえぞ。この家のために働いてきたんだぞ!一生懸命やって来たのによぉ。犠牲になって、働いて来たんだぞぉ」

 男の名は、幸雄。

 砂利運搬のダンプのドライバーとして、オーバーワーク気味に生計を立てている。

 稲作や養豚という、実家の農家の収入では、3世代家族を養い切れないからだ。

 その故もあって、次男の明彦は東京で働いているが、その性格は兄と似つかぬほど穏和で、家族思いの青年である。

 この日の幸雄の暴発は、どうやら一家の日常風景らしく、他の家族も声を荒げることもなく、淡々と壊された食器などの片づけをするばかりだった。

 幸雄の暴発の原因も、叔父が言うように、次男に対する僻みやすい性格が露呈されたもの。

 幸雄の母の話だと、幸雄は晩飯のおかずが気に入らなくて、全て東京の弟の所に贈ったことが原因であると決め付けて、その不満で暴れ捲っていたらしい。

 何より、泥酔の男が実家の柱に縛られて怒鳴り散らしている、このファーストシーンが、人格を破綻させていく本作の主人公の生き方を象徴していると言っていい。

 これは、農村共同体の崩壊を時代の背景にして、その共同体に縛られている男が、「愛しき大地」から離れられないで、ダンプのドライバーとして身過ぎ世過ぎを繋ぎながらも、その人格障害的な性格の狭隘さと不器用さによって、社会に適応できずに、人格破綻していく物語の根幹を象徴するものでもある。

 では、ファーストシーンにシンボライズされた、「縛られた男」の人格総体を縛るものは何か。

 それは何より、ダンプ一つで砂利運搬の仕事を独立させるに至る経緯の中で、二人の愛児を喪失した悲哀に端を発する夫婦の関係破綻と、愛人との二重生活による過剰なる経済的負担の心理圧であった。

 そして、そんな男の人格総体を縛ったものの極点にあったのは、その経済的負担の過重のネックとなっていたアルコールへの依存であり、そこからの脱皮の目的で手を出した、覚醒剤という「禁断の薬」だったと言えるだろう。

 「禁断の薬」の身体注入の常態化によって、社会的自立を継続できない苛立ちが増幅するばかりの日々を、自棄的に累加させた果てに潜り込んだ内面風景の澱みは、遂には、一切のストレスの捌け口と化した、「禁断の薬」それ自身による、陰惨を極めた自縄自縛の負の連鎖だった。

 ウジ虫の湧き出る悪夢をピークアウトに、人格破綻の崩れを止められず、自我の安寧の精神的基盤であり、今や、それ以外にしか存在しない女を殺害するというブラックアウトに至る男の自壊の物語は、「この家のために働いて来たんだぞ!」と喚き叫ぶに足る、なお農業に拘泥する、点景のような一つの家族の崩壊を惹起させていくのである。

 家族崩壊を惹起させた男の心象風景が捕捉したのは、豚舎から豚まで逃げ出すラストシーンのブラックジョークに象徴される、高度成長期の「時代の風景」としての産業構造の劇的な変容を、ただ為す術なく遣り過ごすだけの人々に囲繞され、自分もまた、劇的な変容を遂げていく崩壊過程の共同体社会の流れの中で、決定的に変わり切れない人生を繋ぐ不器用さの、あられもない姿だった。

 それは、度々現出する、分りやすい弦月でもなく、常に満月に至らず、次第に欠けていくばかりの月の絵柄の内に仮託された、痛切で決定的な欠落感である。

 加えて言えば、「甲斐性」と「男の観念」という情感体系に拘泥する心理的風景にリンクするだろう、「禁断の薬」である覚醒剤によって人格崩壊を加速化させる男は、地元に戻って、真面目に砂利運搬の仕事の自立経営を繋ぐ弟とあまりに乖離し、幼少期から母親の愛情を占有していたと決め付ける、その弟に頼る愛人への愛憎が暴れるだけで、とうとう働く気力すら見せられず、長閑(のどか)な農村風景を窓から茫然と見入る姿こそ、この男を最後まで縛りつけていた、「愛しき大地」そのものだったと言うことだろう。

 そんな男の凄惨な人格崩壊の風景を、横田年昭のフルートと、アラブ諸国で用いる撥弦楽器であるウードやリュート、インドの代表的な太鼓であるタブラによる、本作の印象的なBGMは、まるで「魔境」に搦め捕られて、六道輪廻の「地獄道」を彷徨(さまよ)うような、脱出困難な状況の中で呻き、苦吟し、騒ぎ、遂に暴走する、あまりにネガティブな人生の振れ方を見事に代弁していた。



(人生論的映画評論/さらば愛しき大地('82)  柳町光男  <自己を肥大させて生きた男の約束された崩壊現象>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2011/04/82.html