まぼろし('01) フランソワ・オゾン  <「対象喪失」の深甚な懊悩を糊塗するための、それ以外にない幻想の城砦が崩されたとき>

 1  愛する者を喪った悲嘆を癒す「仕事」の艱難さ



 「対象喪失」の懊悩を描いた作品は多いが、その代表的作品は、ナンニ・モレッティ監督の「息子の部屋」(2001年製作)であると、私は考えている。

 「息子の部屋」では、「グリーフワークのプロセス」について精緻に描き切っていて、極めて印象深い作品だった。

 因みに、「グリーフワークのプロセス」とは、愛する者を喪った悲嘆による「ショック期」→「喪失期」→「閉じこもり期」→「再生期」と続いていく、曲折的なプロセスである。

 とりわけ、「喪失期」は、訳もなく怒鳴ったり、ぶつけようのない怒りを噴き上げたり、或いは、特定他者への敵意を剥き出しにしたり、更に厄介なのは、深い自責感によって、必要以上に自己を追い詰めていくという負の感情がリピートされていくが故に、自己の精神状態の抑制的維持がとても難しいのである。

 また、「閉じこもり期」では、自責感情が噴き上がって止まらないという精神状態を露呈し、時には、自死に振れていく危うさをも持つだろう。

 愛する者を喪った悲嘆を癒すのは、如何に困難であるかということだ。



 2  「対象喪失」の深甚な懊悩を糊塗するための、それ以外にない幻想の城砦が崩されたとき



 ところが本作では、「息子の部屋」のように、「グリーフワークのプロセス」という曲折的な心理的展開が見られないのである。

 なぜなら、ヒロインのマリーは、「夫の死」を受容していないからだ。
 通常の観念では、「愛する者の死」を受容していないということは、「愛する者の不在」を認知しても、その「不在」に対する孤独感を感受している心情が生き残されていることと同義である。

 然るに、彼女の場合は、この通常の観念をも突き抜けていくのである。

 彼女は、「愛する夫の不在」の認知すら拒絶するのだ。

 彼女の中で、「夫の死」の受容の拒否を支えている観念は、「夫の死」が物理的に確認されていないという現実が存在するからである。

 夫が突然、避暑地近辺の海岸から姿を消した理由について、彼女なりに懊悩し、その合理的解答を得るための煩悶を重ねたに違いないだろうが、その結果、彼女は、「愛する夫の不在」の認知に逢着したのである。

 「夫から愛される妻」という自己像が、彼女の内側深くに根を張っている、幻想の城砦のうちに依拠し得たからだ。

 万が一にも、愛する夫が、自分を見捨てて失踪する訳がないと考えたであろう。
 従って、「夫の不在」という現実を受容するには、「夫の死」の現実の受容以外に心情的に考えられないが故に、彼女は、「夫の不在」という現実の認知を拒否する以外になかったのである。

 この発想は、現実を根柢から歪める思考であるが、しかし彼女には、それ以外に自己防衛の手段がなかったのだ。
 
 
(人生論的映画評論/まぼろし('01) フランソワ・オゾン  <「対象喪失」の深甚な懊悩を糊塗するための、それ以外にない幻想の城砦が崩されたとき>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2011/07/01.html