尼僧ヨアンナ('61)  イェジー・カヴァレロヴィチ <「悪魔憑き」の現象という戦略 ―― 封印され得ない欲望系との折り合い>

 本作の時代背景は17世紀半ば。

 場所は、ポーランドの寒村の尼僧院。

 映画を観る限り、この尼僧院には、「マグダレン修道院」のような堅固な「権力関係」が存在したとは思えないし、まして「未来の修道女」に対する陰湿な虐めや暴力が常態化していた訳ではない。

 いや、それ故にこそと言うべきか、尼僧院内部の閉鎖的環境下で生活する尼僧たちにとって、色彩感の乏しい日々の累積の中でストックした、様々なストレスを解消する手立ては相当に限定的であっただろう。

 しかし、その限定性は相対的なものだった。

 そこが、「牢獄」の如き「マグダレン修道院」の閉塞性と分れていたのである。

 個々人の欲望系が、抑性的に処理される技術のみが求められる生活の日常性は、そこに特段の破綻を来たす事態が招来しなければ殆ど問題ないが、閉鎖的環境下で許容された自由の濃度が相対的に深かったならば、却って、個々人の欲望系の出し入れが恣意的になりやすく、抑性的に処理される技術のコントロールも困難になるであろう。

 「聖」の象徴としての尼僧院が建つ丘の下に、まるで対極の構図のように構える、「俗」の象徴としての木賃宿

 そこに通う僧院の門番の話によると、尼僧院では、夜間でも門を閉めないから出入り自由であり、肉食も自由であると言う。

 即ち、尼僧院の尼僧の個々人の欲望系は、「絶対禁欲主義」の縛りから相対的に解放されていたのである。

 まして、美しい女性の尼僧院長であるヨアンナの下で、先の「マグダレン修道院」のような堅固な「権力関係」が形成されていた訳ではなかった。

 尼僧たちは、適度なガス抜きを愉悦していたのである。

 現に、「聖」の象徴としての尼僧院に暮らす一人の尼僧は、折に触れ、「俗」の象徴としての木賃宿に通っていて、世俗の話題を存分に共有していた。

 そればかりか、木賃宿の色好みの亭主に酒を飲まされ、軽快なテンポで歌まで歌うのだ。
 
 「惚れる男がいなければ、私は一生尼暮らし」

 こんな歌を平気で歌う尼僧が、スリン神父に見つかり、退散するシーンは印象深いものだった。

 なぜなら、後に男との駆け落ちに失敗ししたこの尼僧は、男に捨てられて嘆いていたが、ここまで徹底的なガス抜きを愉悦していたならば、もう本質的に、彼女は「俗」の住人であるとしか言えないからだ。

 そして重要なことは、この尼僧が「悪魔憑き」に捕縛されていなかったという厳然たる事実である。

 「俗」の住人には、「悪魔憑き」という現象が無縁であったこと。

 それこそが、本作の根柢にある主題に関わる由々しき現実なのだ。

 ともあれ、そんな環境下にあったからこそ、美男で若いガルニエツ神父が、尼僧院の門戸を開けて、夜毎に美しいヨアンナの寝室に忍び込むことが可能だったのだろう。

 「尼僧たちは、神父の訪問を享楽していた。悪魔に取り憑かれた尼たちは、人目も憚(はばか)らず、大声で喚き立てていたのです。会堂で例拝の間にも、淫らな行為をしていました」

 これは、スリン神父が土地の者から聞いた話。
 
 そのスリン神父が、ヨアンナとの関係形成の中で、本人から直接聞いた話がある。

 既に、「悪魔憑き」によって隔離を余儀なくされていたヨアンナは、スリン神父に語っていた。

 「神よ、このあさましい私は何ものですか?私はただの尼です。父は公爵でしたが落ちぶれて、スモレンスク(注)にいるとのことですが、不明です。八つの悪魔に取り憑かれたのは、私の落ち度でしょうか」


(注)17世紀初頭のロシア・ポーランド戦争の「スモレンスク包囲戦」によって、ポーランドリトアニア共和国に割譲された都市。現在は、ロシア連邦に帰属。


 スリン神父に語った、このヨアンナの言葉をみても分るように、彼女は恐らく、他の多くの修道女がそうであったように、「聖女」を目指す強い「宗教的使命感」によって尼僧になった訳ではない。

 普通の欲望と感情傾向を持った美しい女性の、その閉鎖的な日常性の中にあって、存分なまでに世俗に塗(まみ)れた世界との比較において、己が欲望系を封印されることを余儀なくされたとき、「聖」の世界に殉じる者の非日常の時間の広がりに同化していくに足る、「最適適応戦略」の要請が内側から強迫的に突き上げて来た心的プロセスが仮定できるだろう。

 しかし、その強迫的な時間の空洞を埋めるような事態が出来する。

 これが、美男で若いガルニエツ神父の振舞いであった。

 夜毎にヨアンナの寝室に忍び込む時間の形成の本質は、例えそこに「禁断」の印が張り付いていたにしても、その行為自身が「男女の恋愛」か、それとも、「男女の性的関係」の愉悦以外の何ものでもなかったことは否定できないだろう。

 「禁断」の閉鎖空間で男女の関係が作り出されたとき、何かが大きく変わっていく。

 変わっていったものは、ヨアンナが日常的に封印していた生々しい欲望系の情感世界である。

 その中枢の感情が、性欲であると言っても間違いないだろう。

 しかし、「禁断」の閉鎖空間での睦みが世間に知られるに至って、生々しい欲望系の情感世界の延長は人為的に遮断され、その反徳行為は最も厳しいペナルティを招来した。

 ガルニエツ神父の火刑である。

 「ガルニエツ神父の火刑の前夜、尼さんたちは裸で庭を走り回って、神父の名を叫んでいたということだ」

 これは、「俗」の象徴としての木賃宿で拾われた言葉。

 「悪魔憑き」の現象である。

 この「悪魔憑き」の現象が尼僧院で本格的に出来したのは、それ以降である。

 これが、尼僧ヨアンナを中心とした尼僧たちの、その欲望系の情感世界が人為的に遮断された結果、そこに出来した最悪の現象の真実の様態だった。
 
 
(人生論的映画評論/尼僧ヨアンナ('61)  イェジー・カヴァレロヴィチ <「悪魔憑き」の現象という戦略 ―― 封印され得ない欲望系との折り合い>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/08/61.html