炎上('58)  市川崑 <「絶対美」を永遠の価値とする青年僧の、占有への睦みの愉悦>

 1  「汚泥した世俗」の現実を無化する自己防衛戦略への潜入



 「正義」や「善」が、「不正義」や「悪」の存在によって成立する対立概念であるように、「美」もまた、その対極にある「醜」の概念によって成立する相対的概念である。

 ここに、二人の青年がいる。

 一人は、「醜」の直接的な身体表現としての「障害者」であることを逆手に取り、それを声高に叫ぶことで「健常者」の偽善性を告発し、そこで手に入れる優越感によって、倒錯的な心理のうちにアイデンティティを確保する「内反足」の青年。

 もう一人は、件の青年の如き攻撃的な生き方が叶わず、吃音という、「醜」の直接的表現としての「障害者」である自己を差別する、不特定多数の「健常者」に対する屈折した心理を、己が自我のうちに丸ごと囲い込んでいる青年。

 前者の名は戸刈、後者の名は溝口吾市。

 色々な意味で脆弱な印象を与える吾市に、「吃れ!吃れ!」と煽り続ける戸刈の戦略は、「健常者」が作る社会規範を無化するには、「醜」を前線に晒した自我によって、斜に構えて掬う観念的武装以外にないというものだ。

 内在する劣等感を隠し込んだだけの戸刈の存在(注)は、ゲーテの「ファウスト」に出てくる、悪魔の「メフィストフェレス」と言っていい。


(注)戸刈と関係を持つ女に、「片端が二人して、しょうもないことを話しているんが可笑しかったんや」と言われて、激しく狼狽し、いつものクールさを失う戸刈の反応が、その心理を検証するものだった。


 煽り続ける「メフィストフェレス」(戸刈)の、ハイリスキーな戦略を遂行する狡猾さと無縁なほどに、人間観察力の脆弱な吾市の、防衛的なまでにピュアな観念系は、「醜」の直接的な身体表現である、吃音者という劣等意識を超越的に浄化するものとして、「絶対美」の存在を仮構し、その「絶対美」のうちに全人格的に投入することで、「汚泥した世俗」の現実を無化する自己防衛戦略に潜入していくものだった。

 この「絶対美」の実在的対象こそ、彼の父親が吃音の息子に対して、洗脳的にインスパイアーした京都の驟閣寺。

 その父親の遺書を携えて、吾市が驟閣寺の徒弟として住み込むことになったのは、殆ど必然的な流れだったとも言えるだろう。

 吾市にとって、驟閣寺の懐にあって、驟閣寺と睦み合える日々は至福だった。

 しかし、吾市の至福の日々は長く続かなかった。

 そこから、巷間を騒がせた事件への、屈折した心理の劇的な変容が生まれていく。

 
 
(人生論的映画評論/炎上('58)  市川崑   <「絶対美」を永遠の価値とする青年僧の、占有への睦みの愉悦>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/10/blog-post.html