破戒('62) 市川崑 <自己ののサイズに見合った〈生〉に反転させつつ、選択的に掴み取ろうとする男の痛切な物語>

 1  「差別的原作」を屠る印象づけによって構築された物語の、感動譚の連射の瑕疵



 この映画の最大の瑕疵は、物語を感動的に描き過ぎたことだ。

 監修者として本作に参画した「部落解放の父」・松本治一郎(初代部落解放同盟執行委員長)への過剰な配慮が災いしたためなのか、或いは、緑陰叢書(りょくいんそうしょ・藤村が興した出版社)の第一篇として自費出版した若き島崎藤村の原作が、全国水平社の圧力で遂に絶版に追い込まれたという経緯を知悉(ちしつ)するが故にか、明瞭に「差別的原作」と切れた脚色を施す物語を構築したが、どうもそこだけは市川昆監督らしくなく、観る者の情感を激しく揺さぶるような感動譚のエピソードを、「同志」である愛妻の和田夏十(わだなっと)の秀逸な脚本を得て、ある種の戦略性を持って意識的に作ったとしか思えない演出が気になったのは事実。

 それ故、基幹テーマ性と映像構成の不即不離の睦み合いの濃度において、映像構築力の完成度の高さのみに限定すれば、「映画作品」としての本作の評価は、私の中では決して高いものとは言えないのである。
 
 提示された基幹テーマの深刻さを、感傷的なBGMなしでも充分感銘深かったにも関わらず、決して粗悪ではなかったにしても、観る者が予約した情感濃度に合わせるように、芥川也寸志のマイナースケールの音楽を流しっ放しにしたり、「予定調和」の軟着点のうちに自己完結するに至る、些か諄(くど)いほどの感動譚の連射は、屋上屋を架す負の効果を累加させたばかりか、「差別的原作」を屠る印象づけによって、「社会主義リアリズム」という表現方法に則した妥協性が、あからさまに垣間見えるような作品に仕上がっていたといったら言い過ぎか。(画像は島崎藤村

 それにも関わらず、私はこの作品は嫌いではない。

 そんな曰くつきの映画を、昔から繰り返し観ても、溢れ返る涙を抑えられない程に、本作は私の中で鮮烈な記憶に残っている一篇なのだ。

 個人的な好みの次元で言えば、同じ市川昆監督による、「こころ」(1955年製作)や「炎上」(1958年製作)の主人公のように、煩悶し、煩悶し、煩悶し抜く人生の断片を拾い上げる映画がたまらなく好きなので、どうしても、その類の映画を観ると、抑えても抑え切れない情感が込み上げて、不覚にも、液状のラインが頬をだらしなく騒がせてしまうのだ。

 私の中では、殆どそんな映画は稀有な部類に属するが、このあまりに著名な映画は、その種の典型的な作品となっている。

 市川昆監督の作品に限定すれば、「炎上」でもそうであったように、本作でもまた、幾分、過剰演技が鼻に付いたものの、主人公を演じる市川雷蔵の精緻な内的表現力の圧倒的な支配力が、私の胸元に突き刺さって来るほどのレベルにまで届いているからだ。

 雷蔵は素晴らしい。

 それが、私の本作に対する率直な感懐である。

 以下、著名な原作から離れて、ここでは、若き日に初めて観て、その後、繰り返し観返している本作についての批評を短観的にまとめていきたい。
 
 
(人生論的映画評論/破戒('62) 市川崑   <自己ののサイズに見合った〈生〉に反転させつつ、選択的に掴み取ろうとする男の痛切な物語>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2011/12/62.html