シテール島への船出('83)   テオ・アンゲロプロス <「戻るべき場所」を削り取られた者の「内的亡命」という実存への希求>

 1  「決定的構図」を構築できる「イメージ喚起力」の豊潤さ



 些か面倒臭いカテゴリー分類だが、本作は、「こうのとり、たちずさんで」(1991年製作)、「ユリシーズの瞳」(1996年製作)へと続く「国境三部作」の第一作であると同時に、「蜂の旅人」(1986年製作)、「霧の中の風景」(1988年製作)へと続く、「沈黙三部作」の一弾でもある。

 そんな分類はともあれ、本作は、映像作家としてのアンゲロプロス監督の「主題提起力」が際立った傑作であった。

 私にとって、その一点だけが重要な事柄なのだ。

 因みに、「沈黙三部作」の「沈黙」とは、彼が好んで使用する「歴史の沈黙」という独自の言葉に由来する。

 以下、「JANJANニュース」からの引用。

 「『歴史が沈黙している』とは、監督自身の言葉を拾っていくと『瞬時に何かを感じ、印象を刻みつける事になれてしまっている現代では、例えば、喜びも凝縮された瞬間的なもの』『拡張された瞬間、息を吐き吸うまでの"間"を人々は好まない』ということになる。そして、『自律的呼吸を奪われている。自分で呼吸出来ない状態、いや呼吸という概念すら失ってしまっているのが現代』と語る」(「JANJANニュース 亀井貴也2006/12/12」)

 情報過多の社会のアポリアを、「自律的呼吸を奪われている」とまで指弾するアンゲロプロスの思いは理解できる。

 しかし私から言わせると、恐らくアンゲロプロスをも含めて、「JANJAN」のようなイデオロギーの色彩の強い面々の、「現代社会の荒廃の極み」を嘆き、常に「ハルマゲドンの到来」を望んでいるようにしか見えない、柔軟思考欠如の「思考停止性」こそ気になる所だが、ここではテーマと乖離するから問わない。

 決して私は、アンゲロプロスの世界観・政治的スタンスに共鳴する者ではないが、それでも彼の作品が好きなのは、その映像構築力の圧倒的表現世界に敬服するからだ。

 テオ・アンゲロプロスほど、「主題提起力」に底知れぬ力強さを感じさせる映像作家は少ないだろう。

 その作品の内実は饒舌ではないが、「イメージ喚起力」の豊潤さにおいて抜きん出ている。

 説明的会話は一切ない。

 映像だけで勝負する作家なのだ。

 映像の力を信じているからに違いない。

 映像だけで勝負できる作家には、「決定的構図」というものを構築できる才能を持つのだろう。

 本作においても例外ではなかった。
 
 以下、その辺りを書いてみたい。

 
(人生論的映画評論/シテール島への船出('83)   テオ・アンゲロプロス <「戻るべき場所」を削り取られた者の「内的亡命」という実存への希求>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/08/83.html