武蔵野・四季の花

 それは、殆ど唐突に湧き起こってきた素朴な観念だった。

 東京下町で生まれ、育ち、青年期に練馬で生活するようになった私にとって、「東京」という大都市に対する愛着の念が希薄であるように感じたのである。

 大体、新宿・渋谷・池袋・銀座、等々という繁華街でアルバイトをした経験を持ちながら、繁華街の雑踏が性に合わず、いつも心のどこかで、そこにどっぷりとアクセスすることを忌避していたような気がする。

 根っからのジャイアンツファンであり、その後、石川県出身の、大の松井秀喜ファンになったことが、自分と「東京」を結びつける脆弱なイメージであったに過ぎない。

 しかし何の前触れもなく、何かの契機で想念を巡らしていたとき、私は「東京」の何を知っているのだろうか、という疑念が生まれた。

 東京にある史跡や古い文化の名残りを、私は本当に理解しているんだろうか、と思ったのである。

 それまで、若き日の知的好奇心の延長で、秩父事件を中心とする自由民権運動への関心があり、オーラルヒストリー(聞き書き)紛いの趣味を楽しんでいて、その所縁の地を洩れなく訪ねていながら、江戸幕府のお膝元であった、肝心の「東京」の史跡を全く訪ね歩いたことがなかったのだ。

 この素朴な想念の発露が、まもなく、私を「東京散策・史跡の旅」に駆り立てていった。

 その間、約半年。

 殆ど史跡という史跡を訪ね歩いた結果、そこでインプットされた情報は、とても新鮮なイメージに満ちていた。

 灯台下暗しと言うべきか、なぜ、今までそれを遂行しなかったという心理が了解し得るものの、その「怠慢」に対して、妙に訝る思いを払拭したい僅かな好奇心が推進力になって、私はこの「東京散策・史跡の旅」を愉悦したのである。

 折しも、それ以前から、私には風景に対する強い関心が芽生えていたので、この「東京散策・史跡の旅」を終えた後、まるで、最初からスケジュールが組まれているかのようにして、次の趣味のステップに身を預けていった。

 「低山徘徊」と「花紀行」である。

 「東京散策・史跡の旅」で使用したコンパクトカメラを携え、主に、「東京」を中枢拠点にして、この二つの世界と睦み合っていったのである。

 いつしか、コンパクトカメラはオリンパスの一眼レフのカメラにシフトしていって、それを携えて徘徊する私の趣味には、今や、カメラなしには済まなくなっていた。

 「東京散策・史跡の旅」は、私にとって、殆ど自然に流れ着いていった「撮影紀行」への中継点だったのだ。

 当然、「東京散策・史跡の旅」を身を以て経験した私は、今度は、「東京」の美しさをカメラに収めることに関心が張り付いていって、程なくそれは、奥武蔵・秩父への風景の旅に繋がっていったのである。

 東京は美しい。

 このブログで繰り返し書いている思いに、全く変りがなかった。

 そんな風に正直に吐露できる心境にまで至ったとき、私にとって、「武蔵野」という特別な概念は、それ以外に存在しない唯一無二の風土の代名詞となっていった。

 私の好きなフェリーニにとって、「フェリーニのアマルコルド」(1974年製作)の舞台となった、北イタリアの小さな港町リミニが、彼の捨ててはならないルーツへ郷愁であるとするならば、私にとって、秋田県出身のマイペースが歌う、「東京」(作詞・作曲 森田貢)という哀愁のあるメロディと、その歌詞に込められた思いは、そこに住む者の郷里を愛する心情と同質の感情であると思っている。

 いつもいつでも 夢と希望をもって
 君は東京で 生きていました
 東京へは もう何度も行きましたね
 君の住む 美し都
 東京へは もう何度も行きましたね。
 君が咲く 花の都

 「フェリーニのアマルコルド」がそうであったように、存分の苦みと痛みを内包するが故に、却って捨てられないルーツへの郷愁のうちに包括されて、私の中の「東京」は、「武蔵野」という特別な概念に収斂される、特別な価値の一つになっているようである。

 以下、「武蔵野・四季の花」と題するブログで紹介する、武蔵野の四季の風景の切り取られた画像は、そこで経験した私の郷愁のほんの一部分であるが、私の好きな「東京」は、とうてい、このような稚拙な写真には収まらない大きさを持っていることを認知する次第である。(トップ画像は、小石川植物園のサクラ)


 
[ 思い出の風景  武蔵野・四季の花   ]より抜粋http://zilgf.blogspot.com/2011/07/blog-post_9496.html