川の底からこんにちは('09)  石井裕也 <「深刻さ」を払拭した諦念を心理的推進力にした、「開き直りの達人」の物語>

 1  「開き直った者の奇跡譚」という物語の基本骨格



 本作の物語の基本骨格は、「開き直った者の奇跡譚」である。

 「開き直った者の奇跡譚」には、物語の劇的変容の風景を必至とするだろう。

 独断的に言えば、物語の劇的変容の風景を映像化するには、コメディーというジャンルが最も相応しいと考えたに違いない。

 奇麗事で塗りたくってきたこの国の映像文化から、一切の虚飾を剥いで、裸形の人間像を生のまま提示できるからであり、また、精緻な内面描写も、「展開のリアリズム」への配慮も蹴飛ばせるからである。

 だから、スラップスティック・コメディと一線を画して、そこに過激とも思える会話や振舞い、加えて、作り手が勝負を賭けたに違いない過激な社歌の合唱シーンを挿入することで、限りなく虚飾を剥いだ、裸形の人間像を生のまま提示したかったのではなかったのか。

 物語の劇的変容の風景を必至とする「開き直った者の奇跡譚」は、或る意味で「戦略的映像」ではなかったか。

 その「戦略的映像」を、私なりに受容していくと、その問題意識は、「開き直り」の心理学が教える、「奇跡譚」のパワーの人間学的考察という文脈に落ち着くだろう。

 従って、本稿のテーマは、「開き直り」の心理学が教える、「奇跡譚」のパワーの人間学的考察の内実ということになる。

 結論から書いていく。

 この「奇跡譚」のパワーの人間学的考察を要約すると、「ネガティブな自己像」を持つ者が、その自己像を囲繞する「ネガティブな状況」にすっかり搦(から)め捕られて、そのまま放置しておくと、自己像の主体である自我が壊されるかも知れないというギリギリの辺りで、その時点で選択し得る最も合理的な自己防衛戦略を駆使することである。

 以下、物語に沿って考えてみよう。
 
 
 
(人生論的映画評論/川の底からこんにちは('09)  石井裕也 <「深刻さ」を払拭した諦念を心理的推進力にした、「開き直りの達人」の物語>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2011/07/09.html