めし('51) 成瀬巳喜男  <「覚悟の帰郷」という、相互の自我を相対化させた時間の決定力>

 1  観念的に社会的自立を目指した女の、その心理の振幅の激しさ



 「あなたは私が毎日、どういう思いで暮らしているか、お考えになった事あります?結婚って、こんなことなの?まるで女中のように、朝から晩までお洗濯とご飯ごしらえであくせくして。たまに外へ出て帰れば、嫌なことばかり」

 倦怠期にある夫婦生活の変わらぬ日常性への不満から、その妻、三千代のこの言葉から物語は大きく動いていく。

 物語の「起承転結」を、簡単になぞってみよう。

 大阪転勤の証券マンである、夫の初之輔との夫婦生活における、「朝から晩までお洗濯とご飯ごしらえ」の日々への不満が、夫の姪の家出による一過的な共同生活を延長させていく経緯の内に、疑似的な「三角関係」の構図を先読みした心理を身体化してしまったこと。

 これが、「起」である。

 そこに、自らを語ることを回避するかのような夫に対する苛立ちと嫉妬を生むに足る、夫婦生活の心理的風景があった。
 
  そして、冒頭の妻の小爆発をコントロールし得なかった夫の優柔さによって、東京の実家への、意を決した「帰郷」に繋がったのである。

 これが、「承」である。

 「今はただ、母の懐へ飛び込んで、私は子供のように眠りたい」

 これが、妻の三千代が帰郷した際のナレーションである。

 このナレーション通りに、三千代は母の懐に抱かれて安眠する描写が、その直後に記録されていたが、母もまた、娘の揺れる感情を正確に把握していた。

 「眠いんだよ、女は。主人を持つと気疲れだけでもね」

 本質を衝いた母の言葉である。

 ここで敢えて結論的に書けば、成瀬の他の作品と比較して、本作はハッピーエンドに終わるが、大阪での夫婦の倦怠感を忌避して、東京の実家に戻って来た妻の心理の振れ方が、極めて精緻な描写を作り出した一連のシークエンスによって、本作の生命線であることを検証し得たと言えるだろう。

 その妻の心理の振れ方に焦点を当てて、「転」と「結」の描写に言及するのが本稿のテーマである。

 心地良い東京の実家での生活の中で、一時(いっとき)、ストレスフルな自我を浄化した三千代が、職安で偶然再会した旧友との会話こそが、紛う方なく本作を根柢から支えていた。

 それほどに重要な描写だった。

 職安に足を運ぶ行為を示すような、自立への思いを秘めていたはずの三千代の覚悟を、遥かに凌駕する自立への強いモチーフを抱懐する女が、そこにいたのだ。

 彼女の名は、山北けい子。

 この時点で、彼女は未帰還兵の夫を待つ身であるが、実質的に戦争未亡人と言っていい。

 幼い息子の傍らで、彼女は三千代に、自分が置かれた厳しい状況を淡々と語っていく。

 「あと二月で、失業保険が切れるのよ。その間、何とかしなきゃと思うと、この頃、夜も落ち落ち眠れないわ・・・でもいくら頑張ったって、女一人じゃ駄目ね・・・まるで眼の前、真っ暗よ。時々、どうにでもなれって、やけ起こしたくなるわ。御免なさい、あなたのような幸福な奥さんに、こんな惨めな話ばかりしてしまって・・・」

 その話を耳にした直後、夫婦らしき二人のちんどん屋を横目で見て、「同質効果」(対象に同質性を感じることで、精神が安定する心理効果)による笑みを零すけい子と、笑みを零せず、立ち竦む三千代がいた。

 三千代は遠い親戚に就職の斡旋を依頼するなどして、それなりに東京での生活自立への思いを継続させていた。

 しかし、大阪に残した夫への手紙を投函しようとして躊躇する行為に見られるように、なお意地を張っているように見える。

 その手紙の内容は、以下の通り。

 「あなたの傍を離れるということが、どんなに不安に身を置くことか、やっと分ったよううです・・・」

 彼女は既に、夫からの連絡を求めている気分に心を預けていたのである。

 そんな悶々とした感情を抱えた彼女が、和服姿で堰堤を散策して駅に着いたとき、思いがけない光景を眼にして、驚きの表情を隠せなかった。
  幼い息子を傍らに、山北けい子が新聞の立ち売りをしていたのである。

 それは、衝撃的な光景だった。

 真剣に社会的自立を考え、行動する女と、それを志向しながらもなお、大阪との縁を断ち切れず、中途半端な思いを抱く女との違いは決定的だった。

 本作の中で、最も重要なシーンである。

 観念的に社会的自立を目指して、東京の実家に戻った女の、その心理の振幅の激しさが表現されていたからだ。

 
 
(人生論的映画評論/めし('51) 成瀬巳喜男  <「覚悟の帰郷」という、相互の自我を相対化させた時間の決定力>)より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2010/03/51.html