浮雲('55)  成瀬巳喜男     <投げ入れる女、引き受けない男>

 昭和21年初冬。

 一人の女が仏印(仏領インドシナ=現在のベトナム)から単身引き揚げて来た。まもなく女は、代々木上原にある男の家を訪ねていく。

 焼け跡の東京の風景は、この国の他の都市の多くがそうであったように、あまりに荒涼としていた。
 そこだけが何とか戦災から逃れたらしい、古寂(ふるさび)れた木造の一軒の平屋の前に女が立ち、玄関を開けるのを躊躇(ためら)う気持ちを振り切って、女はどの硝子にも筋交(すじか)いにテープの貼ってある格子戸を開け、「富岡さんいらっしゃいますか」と、玄関に出て来た50年配の上品な女性に向かって尋ねた。

 「ちょっと、お待ち下さいませ」

 言葉遣いも上品な婦人に促されて出て来たのは、これも上品だが、地味な出で立ちの30過ぎの印象を与える女性だった。明らかに、着の身着のままで訪問した女とはコントラストの外観を際立たせているが、映像に映し出された相手の女の生気のない印象は、この女の色気のなさを露呈しているようでもあった。その作った笑顔から鈍く光る金歯の造型が、いかにも婦人の年輪を感じさせるものがあったからだ。

 映画の冒頭のこの訪問シーンを、林芙美子の原作から検証してみよう。
 
 「電車で見る窓外の景色は大半が焼け野原で、何も彼も以前の姿は崩れ果ててしまっているような気がした。

 やっとその番地を探しあてて富岡の名刺の張りつけてある玄関を眼の前にして、ゆき子は妙に気おくれがしてならなかった。同居しているらしく、別の名札が二つばかり出ていた。荒れ果てた家で、どの硝子にも細かいテープでつぎたしてあった。

 夜来の雨で表われた矢竹が、箒(ほうき)のように、こわれた板塀に凭(もた)れかかっている。細君に顔をあわせるのが厭(いや)であったが、電報を打っても返事が来ないところをみると、自分で尋ねていくより方法がない。

 ゆき子は思い切って硝子のはまった格子戸を開け、農林省からの使いだと案内を乞うた。五十年配の品のいい老婦人が出て来て、すぐ奥へ引っこんだが、思いがけなく着物姿の背の高い富岡がのっそり玄関へ出て来た。富岡はさほど驚いた様子もなく、下駄をつっかけて外へ出ると、黙ってゆっくり歩き出した。ゆき子も後を追った」(「浮雲林芙美子集 新潮日本文学より/筆者ルビ・段落構成)
 
 実は原作には、このとき富岡夫人は玄関に現れない。

 映像の中で、ここに夫人を登場させたのは、恐らく夫人の生気のない印象を観る者に、ストーリーの伏線として与えるためだろう。
 
 閑話休題

 訪問した女の名は、幸田ゆき子。

 彼女は戦時中富岡の愛人であり、「妻と別れて君を待っている」という言葉を信じて、男を訪ねて来たのである。

 世紀末のようなまるで生命の律動を感じない風景の中を、二人はその律動に合わせるかのように、ゆっくりと、寄り添って歩いていく。映像全体を象徴する、いかにも気だるい音楽が、二人の後姿を包み込むように追い駆けていく。

 成瀬の映画音楽を担当した斎藤一郎のエキゾチックだが、しかし叙情的なメロディが、ここではまさに一級の「メロドラマ」の雰囲気を漂わせて、作品の中に完璧にフィットしていた。
 
 「元気だね。仏印のことを思うと内地は寒いだろう」
 「電報着いて?なぜ、返事くださらないの?」
 「どうせ東京に出てくると思った」
 
 男はわざわざ自分を訪ねてきた女に対して、初めからかわしていく態度を覗かせる。

 男が着替えに戻っている間、女は全く人いきれのない寂れた風景の中で、仏印で富岡と最初にあった日のことを思い出していた。

 二人は、今度は闇市のごった返した雑踏を潜り抜けて安ホテルに落ち着いた。
 
 「内地も変わったわねぇ。こんなに変わっているとは思わなかったわ」
 「敗戦だもん。変わらないのがどうかしてるさ」
 「遥々(はるばる)、引き揚げて来て・・・・」
 「君だけじゃないよ。引揚者は」
 「男はいいわ」
 「呑気だよ、女は」

 ゆき子は、まじまじと富岡の突き放したような表情を覗くだけ。

 そこには、明らかに愛し合った、ほんの少し前の関係との隔たりを感じさせる寂しさが映し出されていた。一切は幻想だったのか。

 「いつまでも、昔のこと考えても仕方がないだろう」
 「昔のことが、あなたと私には重大なんだわ。それを失くしたら、あなたも私もどこにもないんじゃないですか」
 
 終戦が、二人の関係を切ってしまった。
 
 仏印での出来事は、富岡にとってどこまでも旅先でのゲームであり、日本に戻った生活こそが現実そのものの世界に他ならない。ゆき子には、それが心のどこかで理解できていたとはいえ、やはりどうしても消すことができない大切な記憶に他ならなかった。彼女には旅という観念がなく、それ以上に終戦という未曾有の歴史的出来事で、時間を区切っていく観念が全くなかったのである。

 富岡はそんなゆき子に、現金を包んだ封筒を徐(おもむろ)に差し出した。
 
 「いや!いらないわ。逃げてくの?私を捨てるつもりなのね。あなたに会いたい一心で戻って来たのに」

 「君に気の毒だと思うからだよ。正直に言えば、僕たちはあの頃夢を見ていたのさ。こんなこと言うと、君は怒るだろうが、日本へ戻って丸っ切り違う世界を見ると、家の者たちをこれ以上苦しめるのは酷だと思ったんだ。とにかく戦時中をだな、僕を待っていた者に、ひどい別れ方はできなくなってしまったんだよ。別れるより、仕方ないよ」

 「嫌よ!それじゃあ、あなたたちさえ良ければ、私のことはどうなってもいいの?そんな簡単なものなの」
 「君は疲れているんだ。自分のこと、よぅく考えてごらん」

 「初めっから、家や奥さんが大事なら、真面目に通したらいいのよ!・・・・・・別に奥さんを追い出したいなんて思わないけど、君が帰るまでにはきちんと解決して、奥さんとも別れて、さっぱりして君を迎えるなんて。そんなら玄関で会ったとき、奥さんたちとの前で、はっきり宣言したらいいのよ。日雇い人夫をしてでも二人で生きようだなんて!帰ってみれば虫けらのように、叩き捨てられるのね。勝手なもんだわ!」
 
 女はここで泣き崩れた。男は終始無言で俯(うつむ)いているだけ。

 ここに、男の側から別れを言い出したときの定番的な会話がある。

 捨てられることを予感しつつも、女の側からなお身を投げ入れていくどうしようもない感情のうねりがあって、男はただこの一時(いっとき)を耐えればいいという身勝手な思いによって、女の前でひたすら恭順するように座り続けているのだ。

 こんなとき、男の心中では大抵、他のことを考えることで遣り過ごしている。遣り過ごすことだけが、男にとって今、最も不可避なる態度であるからだ。その態度を陰鬱な表情を添えて、女の前に見せていればそれで済むことなのだ。重い債務的なものを引き受けない男の典型が、ここで存分に映し出されていた。
 
 
 
(人生論的映画評論/浮雲('55)  成瀬巳喜男     <投げ入れる女、引き受けない男>)より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2008/10/blog-post_19.html