ピアニスト('01)  ミヒャエル・ハネケ <「強いられて、仮構された〈生〉」への苛烈極まる破壊力>

 1  「父権」を行使する母との「権力関係」の中で



 母の夢であったコンサートピアニストになるという、それ以外にない目的の故に形成された、実質的に「父権」を行使する母との「権力関係」の中で、異性関係どころか、同性との関係構築さえも許容されなかった事態に象徴されるように、一貫して自己犠牲のメンタリティーを強いられてきた娘のエリカは、ポルノショップと覗き趣味に象徴される、「男性性」の世俗文化とのクロスを介して、男根を喪失した「形だけの女」(注)という自己像(「女性である自己」の現実に対する嫌悪感)のうちに閉じこもることで、殆ど男性的な性格を身に付けた結果、既に、観念的にはマゾヒズムの世界への自己投入によってしか安寧し得ない自我を構築してきてしまった。

 母の夢の具現の前では、「父」という、本来の役割を遂行し得ないエリカの父親は精神疾患を患い、まもなく、映像に登場することなく逝去するに至るが、中年女性になっても、「父権」を行使する母との「権力関係」だけは延長されていたのである。

 それは、ファーストシーンでのローキーな画像の中で、観る者に直截に提示されていた。

 「ママ、疲れているの」

 帰宅が遅れた娘の、いかにも疲弊し切った言葉である。

 「そうだね。レッスンが終わったのは、3時間前。それまで何やってたの?」
 「やめて」
 「答えるまで、部屋に入れないよ!」
 「散歩よ。8時間も教えっぱなし。息抜きがしたいわ」

 強引に娘のバッグを開けて、預金通帳を見て、金額が減っているのを確認し、文句を言うばかりの母。

 「一体、何に使ったの?」
 「クソババア!」

 そう叫んで、母の髪を掴む娘。

 それが、娘のマキシマムな抵抗手段だった。

 母親の支配に従属する娘の生活の現実が、そこに提示されていた。


(注)バスルームでの剃刀のシーンの意味は、母との「権力関係」の中で、人間的感情(とりわけ、「女」を意識する感情)を否定され続けたことに象徴される心理的要因によって、長く無月経状態になっていて、それでも、「形だけの女」を演じ続けねばならない強迫観念が、このような行為に及んだとも考えられるが、明らかに、ここにもエリカの自罰傾向の片鱗が読み取れるであろう。


(人生論的映画評論/ピアニスト('01)  ミヒャエル・ハネケ <「強いられて、仮構された〈生〉」への苛烈極まる破壊力>)より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2011/08/blog-post.html