太陽はひとりぼっち('62) ミケランジェロ・アントニオーニ  <ラスト9分間に及ぶ、無言のシークエンスの決定力>

 1  軟着点の見えない話し合いの後で



 原題は「L’ECLIPSE」。

 「月食」、「日蝕」という意味である。

 カンツォーネの代表的女性歌手である、イタリアのミーナ・マッツィーニが歌う、軽快な邦題通りの主題歌から、クレジットタイトルが刻まれる途中で、唐突に、暗鬱な不協和音が流れてきた直後の映像が映し出したもの。

 それは、疲労気味の無言の男女が不機嫌な顔をして、如何にもブルジョワの佇まいのアパートの部屋の中で、明らかに「距離」を意識した関係を露わにしていた。

 恐らく、二人の「愛」の行方についての、共有するに足るだけの、軟着点の見えない話し合いが延長されていた。

 「俺を愛していないのか?結婚が嫌なのか?」と婚約者リカルド。
 「分らない・・・」とヴィットリア。
 「いつから、俺を愛せなくなった?」
 「分らない・・・」
 「本当に?」
 「そうよ」
 「でも、何か理由があるだろう?言ってくれ」
 「分らないって言ってるじゃないの」

 一貫して気怠い表情を隠さない女が垣間見せる、内側に抱え込む憂鬱だけが深く印象づけられる。

 女がその部屋の窓から覗く大きな水道塔と、舗装道路で区画化された周囲の近代都市の寂寞たる風景は、女の内的風景に対応するのか。

  それは、ローマ郊外のニュータウンが本来的に抱え込む、閉塞的な憂鬱であると言わんとするかのようだ。

 本作の、この一連のシークエンスが、映像の心理的文脈を端的に語っていた。

 そして、映像が程なく映し出したのは、「『異界』であるが故に、『文明』と対峙する幻想としてのアフリカ」の風景。

 それは、ヴィットリアが知人のアパートの部屋で覗く、「ケニア・ナイロビの湖」、「キリマンジャロの雪」、「バオバブの木」等の写真が表現する「もう一つのの風景」だった。

 深夜、疑似黒人女性と化したヴィットリアが、アフリカの踊りに興じるシーンが挿入されて、「『異界』であるが故に、『文明』と対峙する幻想としてのアフリカ」の風景が際立つのだ。

 「黒人は大臣になったつもりでいるんだけど、実情は変わってない」

 これは、生まれ故郷のケニアでお産をすると言う、ヴィットリアの友人、ケニア帰りのマルタの言葉。

 彼女の話の内実は、「幻想としての未知なるアフリカ」のイメージを抱くヴィットリアに対して、そのアフリカの現在が、コンゴ動乱のように、「白人に虐げられる黒人の制度化された不幸」がピークと化しているというリアルなもの。

 そして、悪戯騒ぎの虚しさを感じながらも、空虚な時間を繋ぐことしかできない肝心のヒロインの内的風景は、もう拠って立つ自我の安寧の基盤を構築し得ないイメージを深めていくだけなのか。

 ともあれ、この描写は、本作を通して執拗に映し出される、証券取引所の売買の狂騒的なシークエンスの内に、人間の欲得マネーに群がる資本主義の世界への明瞭なアイロニーを被せていることが容易に判然とするだろう。

 
(人生論的映画評論/太陽はひとりぼっち('62) ミケランジェロ・アントニオーニ  <ラスト9分間に及ぶ、無言のシークエンスの決定力>)より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2010/04/62.html