欲望('66) ミケランジェロ・アントニオーニ <関係の不毛という地平にまで絶望的な稜線を伸ばしてきて>

 1  「広場の孤独」の世界に置き去りにされて



 この知的刺激に充ちた本篇において最も枢要な映像構成点は、堀田善衞の小説(「広場の孤独」)の主人公のように、その人格像は決して誠実とは言えなかったが、「事件」(「殺人事件」による公園の「薮の中」に横たわる死体)後の主人公の脱出不能な心象風景の絶望的な空洞感と、不条理的な孤独感を、そこに一片の抒情を交えることなく描き切ったところにあると思われる。

 本作における不条理性とは、形而下の世界での不合理性、非論理性、非科学性というよりも、もっと実存主義的状況下での哲学的意味の観念である。

 それは、他者と共通言語を保持し得る関係を構築できない、限りなく絶望的な不調和感であると言っていい。

 「殺人事件」による、公園の薮の中に横たわる死体を視認したと信じる男の、その心象風景の絶望的な空洞感こそ、本作の基幹の主題であるだろう。

 高度に発達した物質文明社会が作り出した虚構の中で、虚実のボーダーすら曖昧と化している現実を痛烈に批判する作り手が描いた世界の決定力は、少しずつ引いていくカメラが俯瞰するロングショットで映し出された、広々とした公園の一角で、一人置き去りにされる鮮烈なラストシーンにあった。

 多分にサスペンス性に充ちた筆致で描いた本作だが、実のところ、主人公が視認した信じる死体の有無などどうでもいいのだ。

 実際、公園内で殺人事件が出来したか否か、観る者もまた、本作の主人公と同様に、「薮の中」の世界で立ち竦んでしまうのである。

 そこに横たわっていた死体は、誰かに処理されたのかも知れないし、或いは、初めから処理されるべき何ものも存在しなかったかも知れないのだ。

 作り手は、この不条理に満ちた虚実の解釈を、観る者に投げかけているようにも見えるものの、積極的な探偵ゲームを要請しているようにも見えないのだ。

 後者を象徴する典型的なシークエンスが、本作の中にあった。

 殺人事件の出来で動揺する、売れっ子のカメラマンである主人公が、彼のモデルを懇願して主人公を付け回す二人の美女をヌードにして、スタジオ内で所狭しと燥(はしゃ)ぎ回る場面がそれである。

 主人公は、肝心な事態についてすっかり忘れ果てているのだ。

 そこでは、「物語」が成立し得る、「起承転結」という黙契のラインが崩されているのである。

 と言うより、「物語」自体どうでもいいのだろう。

 作り手が描きたいのは、ただ一点。

 事件の真実を占有すると信じる主人公が、その「真実を語るべき対象人格」を探せないことによって、「現代人の絶望と孤独」を通奏低音にする「関係の不毛」を描きたいのだ。

 苦労の末に、「真実を語るべき対象人格」を探し当てた友人のエージェント(編集者?)に、「死体を見てくれ。写真を撮る」と語っても、語られた当人は、「関係ない・・・困ったな・・・何を見た?」などと反応するだけで、麻薬漬けで文脈の咀嚼(そしゃく)すらできないのである。

 或いは、アーティストの愛人を持つ別居中の妻(?)に、事件について語っても、カメラマンである主人公が大伸ばしした証拠写真を見せられた彼女から返ってきた言葉は、「彼(愛人)のアートのよう」だとか、脈絡なく、「助けて。悩みがあるのよ」などという反応でしかなく、真剣に取り合ってくれないのだ。

 事態が日常性の規範から逸脱してしまう途端に、ごく身近な者との、共通言語を保持し得る関係を構築できない心象風景の絶望的な空洞感の一端が、そこにある。

 件の友人の居場所を探し回る中で、コンサート会場に立ち寄った主人公が、そこで経験した小さな出来事。

 それは、ライブ演奏中のロックミュージシャンがブレークダウンした機械に怒って、自分のギターネックを壊す描写があったが、その破片を巡るモッブ化したファンたちの狂乱を招来した挙句、巡り巡って主人公がそれを手に入れたものの、呆気なく路上に捨ててしまうシーンが意味するのは、高度に分業化して発達した物質文明社会の本質が、「廃棄」する行為を前提にした非循環型の社会である狭隘さであった。

 ともあれ、精神的な閉塞を余儀なくされた主人公は、単身、「殺人事件」による公園の「薮の中」に横たわる死体を確認しに行った。

 一種の恐怖突入を敢行したのである。

 しかし、そこに死体はなかった。

 男がそこで見たものは、ファーストシーンに騒々しく登場した、道化の白いドーランを塗り込んだ、パントマイム集団によるテニスゲームであった。

 ジープで大仰に公園に乗り入れて来た彼らは、テニスボールもラケットも持つことなく、コートで相互に打ち合って、一時(いっとき)のパントマイム芸を、主人公の前で開陳するのみ。

 彼もまた、そのゲームにアクセスするものの、気分の昂揚のないまま、ラストシーンの「広場の孤独」の世界に置き去りにされていくのだった。


(人生論的映画評論/欲望('66) ミケランジェロ・アントニオーニ  <関係の不毛という地平にまで絶望的な稜線を伸ばしてきて>)より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2010/04/66.html