「目立たない程度に愚かなる者」の厄介さ

 私たちは「「程ほどに愚かなる者」であるか、殆んど「丸ごと愚かなる者」であるか、そして稀に、その愚かさが僅かなために「目立たない程度に愚かなる者」であるか、極端に言えば、この三つの、しかしそこだけを特化した人格像のいずれかに、誰もが収まってしまうのではないか。

 「程ほどに愚かなる者」は多様な衣裳を纏(まと)うことで、自分の愚かさを幾分希釈化させることに成就するかも知れないが、それでも、そこから零れ落ちてくる裸形の人間像と出会えるからこそ、同様に、「程ほどに愚かなる者」たちとの関係構築が可能であるのかも知れない。

 ところが、「丸ごと愚かなる者」は必要以上に武装したり、或いは、必要以上に武装解除したりするという、如何なる戦略を選択的に駆使してもなお、「程ほどに愚かなる者」たちの興味本位の視線のうちに容易に見透かされることで、そこからダダ漏れする裸形の人間像の生存・適応戦略の軟着点が限定化されているが故にと言うべきか、しばしば、「程ほどに愚かなる者」たちの奇特なる援助に巧みに縋ることによって、彼らなりに、世俗世界との相応の交通を可能にするのだろうか。

 然るに、ここで問題なのは、その愚かさが僅かなために、「目立たない程度に愚かなる者」の、しばしば捩(ねじ)れ切った偏頗(へんぱ)な存在性である。

 「程ほどに愚かなる者」たちや、「丸ごと愚かなる者」の洞察力の決定的欠如によって、過剰に救われてしまう余地を充分に残していること ―― これが、何より厄介なのである。

 
(心の風景  /「目立たない程度に愚かなる者」の厄介さ )より抜粋http://www.freezilx2g.com/2012/05/blog-post.html(7月5日よりアドレスが変わりました)