蝶の舌('99) ホセ・ルイス・クエルダ  <穏やかさを剥ぎ取られた「風景の変色」>

 少年モンチョは不安な夜を過ごしていた。その思いを、就寝中の兄に吐き出さざるを得なかった。
 
 「アンドレス、アンドレス、起きて」
 「どうした?」

 半醒半睡状態の兄は、その顔をベッドに埋めながら答えた。

 「学校で叩かれた?」
 「もちろんさ」
 「行きたくない」
 「どこへ?」
 「学校だよ。もう字も読める。おじさんみたいにアメリカに行きたい」

 この言葉を耳にした兄は、その眼を薄く開けて弟を見た。

 「何、言ってるんだ」
 「叩かれるのは嫌だ」
 「誰にだ?」
 「先生にさ。怖そうな顔をしている」
 「もう寝ろ。でないと学校で居眠りするぞ。だから眠れよ」

 兄のアンドレスはそう言い放って、深い眠りに就いていった。
 
 翌朝、モンチョは母に連れられて、息子の担任のグレゴリオ先生に会うことになった。

 「子スズメが、初めて巣から出るようなもので・・・」

 モンチョの母はそう言って、息子を先生に引き渡したのである。引っ込み思案のモンチョは、いつまでも母の顔を見ながら、まるで引き立てられるようにして、自分の手を先生の手の中に預けていった。

 教室に入る早々、その場面を見ていた級友たちに、モンチョは「スズメだ、スズメだ」とからかわれることになる。少年は緊張のあまり、混合学級の教室内で小便を漏らしてしまうのだ。

 その屈辱に耐えられず、少年はそのまま教室を出て行った。その手には、持病の喘息のための吸入器が握られていた。それが、 持病の喘息のため、一年遅れで小学生になった八歳の少年モンチョの、生まれて初めての登校日の出来事であった。

 この失態で山の中に逃げ込んだモンチョは、船に乗ってアメリカに行こうなどと考えたのである。結局、兄によって連れ戻されたモンチョの心を、定年間近のグレゴリオ先生は優しく包み込み、少年は翌日から学校に通い始めた。繊細な少年の、半年間に及ぶ「風景の旅」が始まったのである。

 学校に通い始めた最初の日に、モンチョはグレゴリオ先生に対する不安感をすっかり払拭してしまった。学校から帰って来るや、モンチョは家族に、その思いを多少の興奮を込めて伝えていく。

 「叩かれなかった」
 「本当?」とアンドレス。
 「それに先生は、もらった鳥を返したよ」
 「誰に聞いたの?」と母。
 「あのおじさんの息子が言ってた。あの人は町長より偉いみたい」
 「鳥とは?」と母。
 「息子に勉強させるための贈り物だよ。でも、その子は勉強しなくても平気だってさ。イモはどこから来る?」
 「畑に決まってるだろ」と兄。
 「アメリカからさ」
 「バカなことを」と母。
 「ほんとさ。先生が言ってた。コロンブス以前にはジャガイモはなかった」
 「何を食べてたの?」と母。
 「栗だ。コーンもない」
 「いい先生みたいね」と母。
 「好きだよ」とモンチョ。
 「でも噂では、先生は“アテオ”だとか」
 「アテオ?」とモンチョ。
 「神を信じない人」と母。
 「パパみたいに?」とモンチョ。
 「何でそんなことを?」
 「神の悪口を言うよ」
 「そうね。確かにそれは良くないことよ。でも、パパは神様を信じるわ」
 「悪魔は?」
 「もちろん、いるわ。天使だったのに神様に背いて、地獄に追いやられたの。だから死の天使なのよ」
 「では、なぜ神様は殺さないの?」
 「神様は殺さないのよ」
 
 何気ない母子の会話だった。

 因みに、その会話の中には、本作のテーマ性に関わる多くの要素が伏線となって提示されていた。

 
 
(人生論的映画評論/蝶の舌('99) ホセ・ルイス・クエルダ  <穏やかさを剥ぎ取られた「風景の変色」>)より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2008/10/blog-post_29.html